北条時直
鎌倉時代中期から末期の武士
北条 時直(ほうじょう ときなお)は、鎌倉時代中期から末期の北条氏の一門で武将。北条実時の子、または北条政顕の子[1]、北条実村の子[2]とも。長門探題。金沢 時直(かねさわ ときなお)とも。
時代 | 鎌倉時代中期 - 末期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 元弘3年/正慶2年(1333年) |
別名 | 越後九郎(通称) |
官位 | 上野介 |
幕府 | 鎌倉幕府大隅・周防・長門守護、長門探題 |
主君 | 守邦親王 |
氏族 | 北条氏(金沢流北条氏) |
父母 | 父:北条実時?、北条政顕?[1]、北条実村?[2]、母:未詳 |
子 | 北条上野四郎 |
生涯
編集永仁3年(1295年)から文保元年(1317年)まで上野介、大隅守護を務めた。永仁5年(1297年)、鎮西評定衆に任命され、鎮西探題となった兄弟(または祖父もしくは叔父)の北条実政とともに西国へ下り、これを補佐する。元亨3年(1323年)、周防・長門の守護に任命され、長門探題となる[3][4]。
元弘3年/正慶2年(1333年)閏2月11日、及び3月12日に祝安親、土居通増、得能通綱、忽那重清らが後醍醐天皇に呼応して倒幕の挙兵をすると、これを鎮圧するために伊予へ進軍するが、石井浜・星岡で相次いで敗れ[3]、長門まで後退する。さらに、山陰から宮方に長門を攻められたが、援軍の到着もあって撃退することに成功する。
5月、厚東・由利・高津などの討幕軍に攻められて瀬戸内海に逃れる。そして海上で六波羅探題、鎮西探題、鎌倉幕府が相次いで宮方の攻撃によって滅び孤立無援となった。このため5月26日、朝廷方の少弐貞経に降伏し、罪を許されて本領を安堵された。しかし程なく没した。死因は病死であったという[3]。
脚注
編集- ^ a b コトバンク「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」「朝日日本歴史人物事典」
- ^ a b 時直の系譜は、『尊卑分脈』『続群書類従』所収「北条系図」、『諸家系図纂』所収「浅羽本北条系図」では、実時―実村―時直(顕時・実政の兄)。『正宗寺本北条系図』『野津本北条系図』では、実時―実村(顕時・実政の兄)。『系図纂要』所収「北条系図」、『姓氏分脈』所収「北条系図」では、実時―実政(顕時の弟)―実村(政顕の兄)―時直。「入来院本平氏系図」では、実時―実村(顕時・実政の兄)―時直。
- ^ a b c 安田 1990, p. 544.
- ^ 佐藤秀成「防長守護小考」(三田史学会『史学(第82巻第1号)』、2013年)は、長門探題は北条氏一門が長門・周防の守護を兼ねたことによる俗称に過ぎず、制度上は存在しない職制であったとしている。
参考文献
編集- 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年。
- 北条氏研究会 編『北条氏系譜人名辞典』新人物往来社、2001年。