劉衍 (後漢)
経歴
編集明帝の子として生まれた。72年(永平15年)、下邳王に封じられた。劉衍は容貌にすぐれ、章帝が即位すると、常に側近にあった。建初初年に加冠し、下邳国の師傅以下の属官は金帛を賜った。79年(建初4年)、臨淮郡と九江郡の鍾離・当塗・東城・歴陽・全椒の合わせて17県が下邳国に編入された。88年(章和2年)3月[1]、下邳国に下向した。後に劉衍は病のため意識不明に陥ったが、太子の劉卬に罪があって廃位されたため、夫人たちが自分の生んだ子を後嗣に立てようと、相次いで上書した。和帝は彭城王劉恭を下邳に派遣して嫡庶を正し、劉衍の子の劉成を立てて太子とした。
子女
編集- 劉卬(下邳王の太子であったが、罪あって廃位された)
- 劉成(後嗣、下邳貞王)
脚注
編集伝記資料
編集- 『後漢書』巻50 列伝第40