劉 歙(りゅう きゅう、? - 34年)は、中国代から後漢時代にかけての政治家・武将。経孫荊州南陽郡蔡陽県(湖北省棗陽市)の人。従兄弟は劉茂劉匡。子は劉終・劉燀。後漢の光武帝(劉秀)の族父にあたる。

事跡

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姓名 劉歙
時代
生没年 生年不詳 - 34年建武10年)
字・別号 経孫(字)
本貫・出身地等 荊州南陽郡蔡陽県
職官 〔不詳〕
爵位・号等 元氏王〔更始〕→泗水王〔後漢〕
陣営・所属等 更始帝光武帝
家族・一族 子:劉終 劉燀 従兄弟:劉茂 劉匡

後漢書』で一応伝こそ立てられているが、劉歙本人については、反新の軍事活動でさしたる功績は記録されていない。むしろ、子の劉終の方が、劉秀と親しい関係にあったことから、父よりも活躍している。

更始2年(24年)2月、更始帝長安に遷都すると、劉歙もこれに随従し、元氏王に封じられている。しかし、更始3年(25年)に更始政権が滅亡すると、劉歙は劉終と共に洛陽へ逃げ込み、光武帝に降った。建武2年(26年)、劉歙は泗水王に封じられ、劉終は菑川王に封じられた。

建武10年(34年)、劉歙は死去し、子の劉燀が後を継いだが、棠渓侯に転封された。菑川王劉終も父の死を悲しむ余り、後を追うように病没し、長男の劉柱が後を継いだが、邔侯に転封された。劉終の子の劉鳳は曲陽侯に封じられた。

参考文献

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  • 『後漢書』列伝4泗水王歙伝
  • 同列伝1劉玄伝

関連項目

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