初鹿野信昌
初鹿野 信昌(はじかの のぶまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。甲斐武田氏、徳川氏の家臣。表が「香車」、裏が「成金」という陣羽織を羽織った(逸話は『関東古戦録』にも見られる)ことから「香車伝右衛門」と呼ばれた。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天文13年(1544年)? |
死没 | 寛永元年11月15日(1624年12月25日) |
改名 | 弥五郎(幼名)、昌久、信昌 |
別名 |
伝右衛門尉(通称)、昌次 香車伝右衛門(渾名) |
墓所 | 御嶽社(大宮区寿能町二丁目) |
主君 | 武田信玄、勝頼、徳川家康 |
氏族 | 加藤氏、初鹿野氏 |
父母 | 父:加藤虎景 義父:初鹿野忠次 |
兄弟 | 加藤景忠、信昌 |
妻 | 馬場信春の娘 |
子 | 男子、信吉、昌季、女子(石野広光室) |
略歴
編集加藤虎景の6男として誕生。永禄4年(1561年)に第四次川中島の戦いで初鹿野忠次が戦死すると、初鹿野氏の名跡を継いだ。
武田信玄・勝頼の2代に仕え、長篠の戦い以降は跡部勝資、長坂光堅、土屋昌恒等と共に勝頼の側近として活躍した。天正10年(1582年)織田信長・徳川家康連合軍による甲州征伐の際は勝頼に合流しようとしたが、領民に妻子を人質に取られたため合流できなくなったという。武田家の滅亡後は徳川家康に仕え、小牧・長久手の戦い、小田原征伐、関ヶ原の戦い(徳川家康本陣、使番)、大坂の陣などに従軍した。
寛永元年(1624年)11月15日に死去した。享年は81(『甲斐国志』)、84(『寛政重修諸家譜』)など諸説ある。子の信吉が後を継ぎ、家系は徳川家の旗本として存続した。知行地はさいたま市北区土呂町付近。土呂陣屋跡地に土呂の地蔵堂が現存。また慶長5年(1600年)に勧進した御嶽社(大宮区寿能町二丁目)が現存。墓所は御嶽社(大宮区寿能町二丁目)。
逸話
編集逸話の一つとして、『関東古戦録』巻八の三増峠の戦い(1569年)の項には、香車の文字を書いた羽織を着ていたため、朋輩らに、「香車は二度と戻って来れないのに、なぜ帰陣した」といわれて、羽織の裏を返し、「時が経って、金に成り変わった」と答え、周囲を笑わせたと記述が残る。