六供町 (前橋市)
六供町(ろっくまち)は、群馬県前橋市の地名。六供町一丁目、六供町二丁目、六供町三丁目、六供町四丁目、六供町五丁目がある。郵便番号は371-0804[2]。2013年現在の面積は1.57km2[4]。
六供町 | |
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あかぎ信用組合本店 | |
北緯36度22分30秒 東経139度4分13秒 / 北緯36.37500度 東経139.07028度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 群馬県 |
市町村 | 前橋市 |
面積 | |
• 合計 | 1.57 km2 |
人口 | |
• 合計 | 6,676人 |
• 密度 | 4,300人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
郵便番号 |
371-0804[2] |
市外局番 | 027[3] |
ナンバープレート | 前橋 |
地理
編集利根川左岸、前橋台地の南部に位置している。
河川
編集- 利根川
歴史
編集縄文時代
草創期の土器が六供町の南の橳島(ぬでじま)川端遺跡から出土し、すでにこの地域に人が住んでいたことが分かる。
弥生時代
後閑町の広瀬団地付近から樽式土器の甕棺が出土している。
古墳時代
2km東に市内でも有数の広瀬、朝倉古墳群が広がっている。中でも天神山古墳(4世紀後半)は東国で最も古い本格的な古墳である。このような古墳が作られた背景には有力な豪族(朝倉の君)と多くの人々の存在がうかがえる。六供町でも上毛古墳総覧には近接して4つの円墳があったことが記され、刀剣や土器が出土している。遺跡調査では下堂木遺跡、中京安寺(けいあんじ)遺跡などで古墳時代の住居跡や水田跡が数多く見つかっている。
飛鳥時代
律令制が始まる。近くの旧町名には、北に市ノ坪町、南に公田町など条里制を思わす地名が残り、発掘調査で水田跡も見つかり、四角に区切った水田が広がる姿が想像される。
この頃京の都と陸奥(現在の青森県)を結ぶ「東山道」(とうさんどう)が作られ、箱田、小相木、六供、天川を通っていた。そして、「東山道」は「あずま道」とも呼ばれる。
奈良時代
聖武天皇の命により741年全国各地に国分寺が作られるが、六供町には小字名として、大門、中京安寺、東京安寺(けいあんじ)、堂木などの寺にまつわる名前が残る。この地に住む有力者が「京安寺」と呼ばれる寺院を建てたことがうかがえる。(創建は八世紀?) 東の利根川を背にして、前橋八幡宮と同じ西向きに造られたと考えられる。
平安時代
六供八幡宮がこの頃建てられる。あずま道の近くと考えられる。
戦国時代
1427年(応永34年)の大洪水で東を流れていた利根川の流れが変わり、西を流れるようになる。
厩橋城が上杉領の時代、厩橋城攻めの時に武田、北条軍に焼き払われた記録が残っている。
江戸時代
前橋城の南に広がる農村地帯である。群馬県郷帳集成によると、1668年(寛文八年)の石高は九百九十六石五斗。元禄十四年も同様。天保五年は千五十九石五斗と増えている。南部では石高の多い村である。
年表
編集- 1874年(明治7年)明治政府から学制が発せられ、六供学校が常光寺(現寿延寺)に設立される。
- 1878年(明治11年)時点では戸数116、人口485人で南部六村(前代田、紅雲分、宗甫分、市ノ坪、六供、天川原)では最大の村であった。士族7戸。
- 1886年(明治19年)東群馬第四尋常小学校が設立される。
- 1889年 六供村は市之坪村、上佐鳥村、朝倉村、後閑村、宮地村、下佐鳥村、橳島村と紅雲分村、宗甫分村、前代田村、天川原村の各一部と合併し東群馬郡上川淵村が成立する。両毛線が開通し、前代田、紅雲分などの人口が急増する。
- 1901年 上川淵村から分かれ、前橋市となる。桃井小学校区となる。
- 1923年(大正12年)城南小学校が開校される(市之坪町、市内四番目)。城南小学区となる。
- 1943年(昭和18年)上毛撚糸本社工場ができる。
- 1947年戦災復興住宅の生川住宅が作られ、人口が増加する。
- 1951年 前橋市の大字から前橋市の町名となったため前橋市六供町となる。
- 1959年(昭和34年)し尿処理場(現在の水質浄化センター)ができる。
- 1962年(昭和37年)下水処理場ができる。
- 1967年 一部が南町二丁目、天川原町一丁目、天川原町二丁目となる。
- 1971年(昭和46年)南町から城南小学校が移転してくる。当町に前橋市六供清掃工場が建設される。
- 1973年(昭和48年)前橋市立第五保育所が設置される。
- 1979年(昭和54年)上毛撚糸の跡地に、市内で最初の大型ショッピングセンター「上毛シルクプラザ」ができる。
- 1991年(平成3年)六供清掃工場、温水プールができる。
- 2008年(平成20年)第五保育所が六供ひよこ保育園となる。
- 2023年 六供土地区画整理事業により六供町(丁目なし)を廃止し、六供町二丁目、三丁目、五丁目が設置される。
地名の由来
編集源義経が奥州に落ちのびた際、6人の供がこの地に残ったからという説や、小幡城主小幡伊勢守忠利が武田信玄に追われ、6人の供とこの地に住みついたからなどの話が伝えられている。条里制の名残と考える説もある。北に市ノ坪町(一の坪)がある。条里制は縦横6区画ずつ計36区画で作られ、「一の坪」の南「六の坪」に六供の文字を当てたものと考えられる。
世帯数と人口
編集2023年12月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目・町丁 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
六供町一丁目 | 280世帯 | 1,776人 |
六供町二丁目 | 657世帯 | 1,516人 |
六供町三丁目 | 653世帯 | 1,452人 |
六供町四丁目 | 495世帯 | 1,103人 |
六供町五丁目 | 386世帯 | 829人 |
計 | 2,521世帯 | 6,676人 |
小・中学校の学区
編集市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[5]。
丁目・町丁 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
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六供町一丁目 | 全域 | 前橋市立城南小学校 | 前橋市立第一中学校 |
六供町二丁目 | 全域 | ||
六供町三丁目 | 全域 | ||
六供町四丁目 | 全域 | ||
六供町五丁目 | 全域 |
交通
編集鉄道
編集鉄道駅はない。
バス
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道路
編集国道は通っておらず、県道は群馬県道11号前橋玉村線と群馬県道・埼玉県道13号前橋長瀞線が通っている。
施設
編集- 六供八幡宮 祭神 足仲彦尊(たるなかひこのみこと) 誉田別尊(ほんだわけのみこと、応神天皇) 息長足姫尊(おきながたらいひめのみこと、神功天皇じんぐうてんのう) 市内では古い八幡宮と言われている。創建は大同三年(808年)と伝わる。鎌倉時代、建久年間(1190~1199)に社殿を改造し、その後、江戸時代、貞享(じょうきょう)三年(1686年)火災の為焼失した。元禄元年(1688年)戊辰八月十五日新築完成した。現在の社殿はは権現造りで、前殿、後殿を前後に配置していてこの時造られたものと考えられる。明治四年(1871年)八月九日改修工事。降って大正十三年(1924年)四月大屋根改修。昭和十四年(1939年)キティ台風の為拝殿一部修復。昭和四十年(1965年)屋根の改築工事を行い、銅葺き屋根となる。宝永元年(1704年)甲申八月十五日と記された文書あり。境内には三笠山神社、御嶽山 神社、八海山神社、弁天様、天神様、雷電様、飯玉様、曲神様などが祀られている
- 市六供清掃工場
- 前橋市立城南小学校
- 六供温水プール
- 六供こども公園
- あかぎ信用組合本店
出典
編集参考文献
編集- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 10 群馬県』角川書店、1988年7月8日。ISBN 4-04-001100-7。
- 前橋市史第一巻、第二巻、第四巻
- 上毛古墳総覧 昭和十三年 群馬県
- 南町三丁目町誌
- 二ノ宮の今昔
- 南町二丁目史
- 本町二丁目町史
- わたしたちの城南 昭和62 前橋市立城南小学校
- 前橋市埋蔵文化財発掘調査報告書「六供遺跡群」2006
- 上野国郡村誌4 昭和56
- 前橋学ブックレット19 前橋の旧地名 町田 悟 上毛新聞社事業局出版部2019
- 上野国郷帳集成 平成4 群馬県文化事業振興会