依田氏(よだし)は、日本氏族。『尊卑分脈』によると清和源氏多田源氏満快流(源満仲の弟)。依田[1]信濃国小県郡依田荘に由来する[注釈 2]

依田氏
三つ蝶みっつちょう
本姓 清和源氏満快流
家祖 依田為実
種別 武家
出身地 信濃国小県郡依田荘
主な根拠地 信濃国 ほか
著名な人物 依田実信
依田信蕃
依田康国
支流、分家 芦田氏武家
相木氏(武家)
平尾氏
諏訪氏[注釈 1]
凡例 / Category:日本の氏族

出自

編集

源満快の曾孫・源為公が信濃に下向し、信濃守となり、現在の長野県上伊那郡箕輪町上ノ平に居館を構え、主に南信濃に広がる信濃源氏の祖となった。依田氏の祖は為公の六男依田六郎為実とされ、東信濃の小県郡に依田城を築いて本拠地とした。

江戸幕府が編纂した寛永諸家系図伝によれば[2]源経基の嫡男、源満仲流とする家系が存在する[3]。その説によると、満仲の次男、源頼親直系の親治が大和の宇野に住しており、その子の有氏が信濃に下向し、小県依田に築城して依田を称した。頼親の弟、頼信は、新田氏足利氏武田氏等の祖となった。

出自補遺

編集

国史に現れる「依田」の最古の記述は、『日本書紀』の第七段一書(三)のものである。「一書曰、是後、日神之田有三處焉、號曰天安田・天平田・天邑幷田、此皆良田、雖經霖旱無所損傷。其素戔嗚尊之田、亦有三處、號曰天樴田・天川依田・天口鋭田、此皆磽地、雨則流之、旱則焦之」。素戔嗚尊(スサノオ)が所有する土地のひとつ「天川依田」として記されている[注釈 3]次に古い記述は、『続日本紀』の神護景雲二年十二月紀にある「土佐國土佐郡人神依田公名代等四十一人賜姓賀茂」である。歴史学者の山本大氏が編者となった「郡頭神社」『式内社調査報告 第9巻』(式内社研究会編 皇學館大学出版部、1987年)においては、神依田は、地名の神田(こうだ)を表すと説明されている。しかしながら、明治30年に刊行された国史体系では、神依田に「かん よだ」とルビが振ってある[4]

系譜学の大家、太田亮氏は、神依田公を依田氏と認め、「三輪氏の族」と説明する[5]。著書、『姓氏家系大辞典』によれば、三輪氏(君)は「出雲の神の嫡裔と伝えられ、大国主命譲国の後は、出雲神族中の嫡流たりしが如し。大和国磯城郡三輪山を根城とし、大三輪の神、即ち大物主神を奉斎して、威を近隣に奮いき」とされている[6]

史家の志賀剛氏は、著書「式内社の研究」において、奈良県城上郡式内社「宇太依田神社」を解説する際に、「続日本紀に『土佐国人神依田公(みわよりた)』が見えるが、あるいはここの依田の出自であったのであろう。この神(みわ)は大三輪を指すであろうから備前の地は大三輪の神戸(かんべ)であったかもしれない」と記している[7]。宇太依田神社周辺を土佐国人神依田公の出身であるとする志賀氏の説に対して、『奈良県史』は、「明確し難い」と論駁している[8]。その一方で、系図学者の宝賀寿男氏は、神依田公を都佐国造の族裔としている[9][注釈 4]

太田氏は、信濃国小県郡依田より起こった依田氏は、科野国造の後裔の金刺氏流と説いている[5]。金刺氏は、多氏の流れであり、多氏は神武天皇の第二皇子、神八井耳命の後裔とされる[10]

大正11年に発行された、『小県郡史』では、小県郡の武家を時系列的に解説する際に、まず最初に他田氏、次に滋野氏、その次に依田氏が起こったと説明している[11][注釈 5]。依田氏より、先に起こった、他田氏、滋野氏をともに依田氏の祖と見做す説がある。長野史学会会長を務めた郷土史家の一志茂樹氏は、「依田氏は、(後述の通り、神武天皇の後裔)他田真樹の後裔」との説を唱えている[12]。その一方で、日本家系協会が刊行した「依田一族」(武田光弘編集)においては、「平安時代後期に、海野荘の庄官に海野小太郎幸経(幸高)という者が居り、その子孫が海野氏、禰津氏、望月氏に分れ、海輪氏(誤字・本文ママ)からは真田氏が出たが、その前に依田氏の系が分出していたということになる」[13]との説が展開されている。その論拠となる史料は、(滋野)盛忠が芦田七郎・信州依田祖と記された「滋野氏三家系図」である[14]。ところが、この「信州滋野氏三家系図」(いわゆる「滋野氏系図」)については、上田・小県誌(1980)において、「後世の付会が多く、到底これを以て確実な根拠とすることはできない」「『小県郡史』『姓氏家系大辞典』が何れもこのことの疑わしいことを述べているのは、確かな史料に基づいた系図ではないからである」[15]との評価を受けている[注釈 6]

歴史

編集

平安時代

編集

為実の子・依田次郎実信治承4年(1180年源義仲に依田城[注釈 7]を明け渡し、義仲は依田城にて挙兵する。依田氏も他の信濃武士と共に源義仲軍に加わり上洛する[注釈 8][16]倶利伽羅峠の戦いでは、10万余騎を率いた平氏を討つために、義仲は5万騎を七手に分けて臨んだ。源平盛衰記においては、7軍の大将のうち、信濃小県から従軍したとされる「宇野彌平四郎行平」「余田次郎」「円子小中太」が記されており、それぞれ「海野彌平四郎行平」「依田次郎」「丸子小中太」を指している[17]。依田(余田)次郎らが進攻を命じられたのは、木曽義仲軍の最右翼に当たる北坂口の軍路であった[18]。義仲は、後白河法皇の庇護を巡り、源頼朝源義経と対峙、寿永3年(1184年)、近江国粟津で討ち死にする。これに伴い、依田氏は依田庄を失い一族は各地に散ったとされ[19]、一部は近隣の飯沼の地に残留して飯沼氏と称した。依田氏と義仲については、初代の依田為実の母が源義賢(義仲の父)の娘だった縁とされる[19]

鎌倉時代

編集

源頼朝は、義仲の勢力を掃討するために、義仲の拠点となった塩田庄へ、股肱之臣(ここうのしん)であり、島津氏の祖である惟宗忠久(島津忠久)を地頭として送った[18]鎌倉幕府は義仲が拠った依田城のある依田庄に対しては、将軍源実朝の代に、源氏と深い縁[注釈 9]がある八田氏(のちの茂木氏)をして地頭職に命じた[20]鎌倉幕府成立後は、依田庄を失うなど勢力を削がれていたが、まもなく得宗家の家臣として勢力を回復したとする説がある[注釈 10]。得宗被官化を唱える説では、正安2年(1300年)に、得宗被官あるいは御内人であった大蔵宣時と同等の扱いで、依田五郎左衛門行盛が、鎌倉幕府執権の遣いとなって九州へ出向した史実に重きを置く[21]。得宗被官化の端緒となったのは、依田資行承久の乱において幕府側にくみした史実が考えられる[22]。一方、北条氏の執権体制を強固なものとした、和田合戦において北条方につき、討ち死にした武家の中に与田小太郎がおり[23]、これを依田小太郎と解し、この時点で鎌倉幕府の御家人だったとする説もある[24]。得宗被官(御内人)の威光によって、3代将軍・源実朝から地頭に任命された茂木氏の本領安堵とされていた依田庄が再び依田氏の支配下に戻った[25]。行盛の弟、朝行は官名・中務丞[注釈 11]を授かり、鎌倉幕府の奉行衆評定衆を務めた[26]

南北朝時代・室町時代

編集

鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏の興隆に疑心を抱いた後醍醐天皇は、皇子の護良親王征夷大将軍に任命した[27]。尊氏には、鎮守府将軍などの地位を与えて軍の指揮権を与えなかった。このように、南北朝の時代前後から、後醍醐天皇の周辺では実子=皇子を擁立する動きが出てきた。尊氏の弟、足利直義相模守に任命される前に、後醍醐天皇の腹心の北畠親房は、実子の顕家を陸奥守として、後醍醐天皇の皇子、義良親王を擁して陸奥に下った[28]後醍醐天皇は、この後、直義を相模守に任じ、8歳の皇子、成良親王を擁して下ることを許可した[28]。やがて、観応の擾乱が起き、尊氏と直義は反目し合うことになり、南朝方に付いた直義が没した。その直後、南朝方の新田義宗・義興らが上野(群馬)に挙兵し、隣国の信濃の直義派の諏訪氏も、宗良親王を擁して挙兵した[29]宗良親王挙兵の中心となったのは、神家(諏訪氏)と滋野氏一族だった[30]宗良親王擁する信濃武士の行軍は、応安7年文中3年1374年)に宗良親王吉野に帰るまで続く。長野県史は、観応の擾乱前夜までの南北朝期における信濃武士を区分けし[31]、「足利氏について奉行となり力を持っていたが、政務を担当することが多く、合戦資料には登場しない氏族」として、諏訪氏の傍流の円忠系とともに、依田氏を挙げている。「ずっと足利がたに属し、各地で転戦した氏族」の中では、小笠原氏が筆頭格となっている。小笠原氏は、政長の代には守護に任命されており、庶流大井光長守護代に就任している[32]大井光長は、小笠原氏の始祖、小笠原長清の孫(あるいは子との説もある)である。


南北朝時代から室町時代にかけて、依田氏から幕府評定衆奉行衆奉公衆に少なくとも9人が就いている[33]足利尊氏の代においては、依田中務大夫入道元義(幕府奉行)、座衛門尉貞行(幕府奉行)、足利義詮足利義満の代には、左近大夫時朝(評定衆)[34][注釈 12]足利義持の代には、座衛門大夫秀□(幕府奉行)が就いており、その後は、中務丞秀朝(幕府奉行)、中務丞光朝(幕府奉行)と続く。奉公衆には、依田九郎、依田孫九郎が就いている[35][注釈 13]。幕府の要職に命ぜられるのは建武2年(1335年)から文明年間まで続き、依田氏は在府と在地に分かれる事になる[36]応永9年(1402年)、室町幕府は信濃国を幕府料国と定めて、幕府奉行人の依田左衛門大夫季□ほか1名を代官として下向させた[37]

評定衆に21年間就いた朝時は、尊氏の死後、義詮が将軍職につく5日前に開かれた御評定の席にまず奏事役で列席した。その後、諏訪円忠らと共に尊氏の一周忌を取り仕切った。岩清水八幡宮の神殿造営、京都賀茂神社の造営、臨川寺五山昇格、足利氏の菩提寺等持寺の十刹昇格などを奉行した後、評定衆に迎えられた。

「日本書紀」の「天武紀」には、「天武十三年二月二十八日、三野王、小錦下采女臣筑羅等を信濃に遣して、地形を看しめたまふ。是の地に都のつくらむとするか」「天武十四年十月十日、軽部朝臣足瀬、高田首新家、荒田尾連麻呂を信濃に遣わして、行宮を造らしむ」とある。この記録は、天武天皇が信濃への遷都を画していたことを表すが、遷都構想については、佐久郡を候補地とする説もある[38]室町時代前後から、在地の依田氏は、佐久郡の平原などに進出し、平尾氏平原氏等を名乗った[注釈 14]。信濃守護小笠原氏の分流である、大井氏に従臣した影響によるところが大きい。鎌倉公方足利持氏の遺児である永寿王丸を扶育し、成年した永寿王丸鎌倉公方足利成氏として鎌倉府を復興させる[39]など、大井氏は名門としての責を担った。その大井氏が佐久を所領していたたことから、従臣した依田氏は佐久郡に進出した。ただし、依田氏の佐久郡・芦田への進出を巡り、大井氏に従臣した時期における論争がある。在地の依田氏が大井氏に恭順したのは、永享8年(1436年)に小笠原氏・大井氏との戦いに敗れた後とする解釈がある。長野県史および、長野県佐久市の史書「佐久市志」はともに、「芦田氏は小県郡丸子の依田一族と推定されている」と記し、同解釈に拠る論陣を張っている[40][41]。その一方で、幕府8代将軍・足利義政が発した、御教書を以って、依田氏の芦田進出の時期を判断する立場もある[42]。足利義政の記したところの「芦田下野守」は、依田氏の同時期の系図・系譜には存在しない[43][注釈 15]永享元年(1429年)には、鎌倉時代より続く大井法華堂の先達職に依田氏が就任していた[36]、等の史実に裏付けられたうえで、信濃守護小笠原氏大井氏の陣営にあった、依田右衛門尉経光が永享8年(1436年)に芦田に進出して芦田氏を名乗った[注釈 16]とする。これによれば、依田氏は、在府での地位を賭するような、足利義政の不興を買う振る舞いはせずに、大井氏との関係を良好に保っていた。足利義政の命を受けて[44]、信濃守護小笠原氏・大井氏陣営が戦ったのは、滋野氏の流れを汲む、芦田氏、海野氏根津氏であった[45][注釈 17]

依田庄から芦田郷に入部した依田右衛門経光の子、備前守光徳から芦田姓を称するようになった[46]。その子右衛門太夫光玄には二子があり、前妻との間の子どもである長子の左衛門太夫孝玄のほか、後妻との間に第二子の義玄がいた。後妻は、わが子義玄の家督相続を企て、孝玄を御嶽堂城に移したうえで、乳母と家臣の布施、小平両氏の手で、文明9年(1477年)に謀殺した[47]。芦田城内における相次ぐ事件を受け[48][注釈 18]。義玄は、孝玄の霊を供養するため、芦田、御嶽堂2つの領内に依田大明神を建立したうえで[49][注釈 19]、剃髪し仏門に入り玄栄済と称した[47]

義玄が没した天文6年(1537年)に、家督を相続した長子、信守は10歳に満たない幼少の身だった[50]。天文10年(1541年)5月、武田信虎は諏訪頼重とともに小県に入り、海野平に祢津、海野を討ち真田氏を追った[51][注釈 20]>。武田信虎は大軍を率いて佐久郡に侵入し、土豪や武将を降伏させた。諏訪頼重は帰途、芦田城を攻略し、幼少の信守を諏訪に連れ去ったうえで臣従させた[52]。翌年の天文11年(1542年)、諏訪頼重は、信虎を退けた武田晴信によって滅ぼされた。

信守は、天文18年(1549年)、居城を芦田城から春日城に移し、永禄3年(1560年)に武田氏へ正式に臣従した[53]。武田氏は、佐久郡平定後に東北信濃を制圧し、さらに西上野に進出した。武田信玄は、永禄9年(1566年)、北条氏に備えるために、武蔵国堺にある上野国の浄法寺を芦田信守に与え周辺を知行地とした[53]。「武田三代軍記」等[54][注釈 21]が示す通り、下野守信守は、武田氏の有力な信濃先方衆[55][注釈 22]となった。武田氏は、躑躅ヶ崎館の周辺に有力な國人(土豪)を屋敷地を与えて住まわせており[56][注釈 23]、下野守信守も屋敷を構えていた[56][注釈 24]。その他の依田流の武家では、相木(依田)市兵衛も屋敷を与えられていた[57]

戦国時代

編集

2万5千の兵を率いた武田信玄は元亀3年(1572年)、信州経由で徳川家康所領の遠江へ攻め込んだ。武田信玄の別働隊の将であった秋山信友は、美濃に侵入し、織田信長方の要衝である岩村城に迫った[58]。当時岩村城主の遠山景任は亡くなっており、未亡人で織田信長の叔母おつやの方が城主を代行していたが岩村城を秋山勢に包囲されると降伏の条件として秋山信友の妻となることと、養子として預かっていた信長の子御坊丸を武田方に引き渡し武田方の軍門に下った。これを聞いた信長は激昂し、1万の兵を率いて出陣した[59]。うち5千を岩村城奪還のために向かわしたが、将である遠山景行は、700の寡勢の芦田信守芦田信蕃親子の前に破れた。芦田親子は景行の首級を上げた[60]

信守の子・信蕃の代に武田氏が滅亡、当時駿河国田中城に居た信蕃は城を明け渡し、徳川氏の庇護下に身を寄せる。本能寺の変により信濃の織田勢力が瓦解し、旧武田領が徳川・北条・上杉の争奪地となると(天正壬午の乱)、信蕃は当初は後北条氏に属し、その後徳川氏に属して佐久地方で活躍。当初北条方であった真田昌幸を徳川方に寝返らせる等の功績で、佐久・諏訪の二郡を与えられ小諸城代となる。しかし、佐久で唯一残った北条方の岩村田大井氏が立て篭もる岩尾城攻めで、弟・信幸と共に戦死を遂げる。

安土・桃山時代

編集

徳川家康は、天正11年(1583年)に信蕃の嫡男・竹福丸を浜松城に呼び、松平姓を授けると共に、諱である「康」の一字を与え、松平源十郎康國と名乗らせた。重臣である大久保七郎右衛門忠世を、14歳であった康國の後見役とした。このため、康國以降を依田松平氏と称する場合がある[61]。大久保忠世の後見を得た康國は、最後に残った北条氏方の小諸城代、大道寺政繁を攻略し退けた。佐久地方は平定し、家康は、松平康國(依田康国)を小諸城主とした。康國は、佐久の本領6万石に加え、駿河2万石、甲斐国2万石の合わせて10万石の大名となった[62]。家康は、康國の常備軍として依田肥前守に47騎、足軽200人を付し稲荷山城に置いた[63]。康国は天正13年(1585年)の第一次上田合戦で初陣を果たすと、丸子城攻略に手柄あった。康國は大久保忠世またはその代理である弟の彦左衛門忠教の後見を受けていたが、天正14年(1586年)に徳川氏と真田氏の和睦が成立すると大久保氏は佐久から退き、康國は徳川氏傘下の国衆として佐久郡に一円支配を確立した[64]。天正18年(1590年)には、相木白岩に挙兵した、依田能登・伴野刈部を破り、伴野刈部の首級を取った。討ち取った騎馬数は380に達した。家康の命により小田原征伐上野国に出陣し、西牧城を陥す。総大将であった豊臣秀吉は徳川家康宛の書状で、康國の働きによって信濃衆を討ち取った事を讃え、家康からも言葉を掛けるようにと記している[65]。同年、康國は石倉城で戦死を遂げる。

江戸時代

編集

康国の死後は弟・康真が家督を相続し、徳川家の関東移封に伴って武蔵国榛沢郡と上野緑野郡に3万石を与えられ、藤岡城主となる。それに先立つ天正14年(1586年)、徳川家康自ら福千代丸(康真)の髪を整え、松平姓、諱の「康」、腰物、髪道具等を下賜し元服させた[66]豊臣秀吉は、康真に豊臣姓を与えている[67]。しかし関ヶ原の戦いを控えた慶長5年(1600年)1月23日、大坂の旅宿で囲碁をしていた際、同僚の小栗三助なる者を喧嘩口論の末に殺害してしまう。これが原因で高野山に蟄居し藤岡藩3万石は改易。徳川家康の次男・結城秀康の許にお預けとなる。結城秀康は越前福井へ封じられ松平秀康となった[68]。康真は松平秀康に仕える事になる。この頃、秀康は家康の命により上杉景勝と対陣しており、下野国宇都宮において康真を召し出したという[69]。依田康真は松平姓をはばかり、母方の加藤姓を名乗り、加藤康寛と改名し、越前国木本5000石を与えられた[68]。子孫は芦田姓を名乗った[68]。福井藩内での家格は、筆頭家老の越前府中本多家に次ぐ、十六家を示す上位の「高知席」だった[注釈 25]。また、康真自身は終生、依田姓で通していたとも伝わる[要出典]元和9年(1623年)に死去したと言われるが、没年には異説もある[要出典]

佐久市八幡の依田家

編集

佐久市八幡(旧南御牧浅科村)の依田氏は、長野県屈指の地主であり、農地解放が実施されるまで長野県の高額納税者1位の常連であった。八幡の依田氏は、仙右衛門を通称として、遠祖は小諸城主依田氏の庶子の一人であった。小諸城主依田氏が、上州藤岡城主となった際、これに随従せず土着帰農した。元禄15年(1702年)から維新まで小諸城主となった牧野氏から馬上を許され奏者格の格式が与えられた。また依田氏の邸宅にたびたび藩主・牧野氏が立ち寄った(小諸領内旧家録等)。依田仙右衛門家の江戸時代を通じての文書約1万点は、現在早稲田大学図書館に「依田家文書」として保管されている。依田専左衛門家は、専右衛門家の分家である。藩主の国替えに随従しない事を例としていた小諸藩の御城番組の番士(卒族)にも、依田姓が散見される。

芦田姓の武家

編集

東信で芦田を名乗った武将は、滋野氏系と依田氏系に分かれる。

滋野氏系の芦田氏は鎌倉時代から佐久郡芦田に館を構えており、その系譜は、滋野滋氏王ー蔵人敦重ー又三郎為重ー法師僧光ー盛弘ー芦田七郎盛忠ー備前守朝ー下野守氏久となる[70][71][注釈 26]

永享元年(1429年)、室町幕府六代将軍に足利義政が就任すると、鎌倉公方足利持氏はこれに反発し、関東管領の上杉憲具の諌めにも耳を貸さずに、幕府に対する決戦に備えるため、鎌倉に味方する東国武将に下知状をもって出兵を促した。滋野系芦田氏の下野守もこれに呼応し、関東出兵のため小県郡芝生田まで兵を進めた[70]。これに対抗したのが、信濃守護小笠原政康の祖からの分流である、大井越前守持光だった。この噂を耳にした将軍足利義政は、御教書を発した[72]

「大井越前守と芦田下野守不快の事、然るべからざる候。早々和睦すべきの旨仰せ出され候。よって東国の面々御教書なされ候おわんぬ。若し尚事行かずんば、美濃・越後の御勢差し遣わさるべきの由、沙汰申すべく候の段堅く仰せ含められるべく候以上   二月十七日 永享七年  小笠原殿  足利義政  花押

滋野系芦田氏は、将軍義政の調停案を一蹴し[注釈 27]、芝生田氏の協力を得て、芝生田城、別府城の両城に立てこもり、幕府が後ろ盾となった、信濃守護小笠原政康、越後守護長尾邦景、大井持光の連合軍を迎え撃つ体制を取った。小笠原政康は、依田右衛門尉経光と、高井郡井上一族の米持次郎光遠をもって、滋野芦田氏を攻略し滅亡させた[72]

依田右衛門尉経光の子、備前守光徳から芦田姓を称するようになり、信蕃の父下野守信守まで、嫡流だけが「芦田」、傍系は依田姓を名乗ったが、信蕃の代から依田姓を使用した[73][注釈 28]

系譜

編集
平安時代中期 - 鎌倉時代中期> [74]太線は実子、細線は養子。
  源満快
   ┃
  満国
   ┃
  為満
   ┃
  為公
   ┣━━━━━━━━━┓
 伊那為扶            依田為実
   ┃               ┣━━━┓
 依田為実              実信    豊平
   ┃     ┏━━━┻━━━┓
  実信      信行        行俊(飯沼太郎)
               ┃           ┃
        手塚氏/諏訪氏    資行(飯沼三郎)
                      ┏━━━┫
                      常遠    唯心
                              ┣━━━┓
                              行盛    朝行


戦国時代 - 織豊時代> (依田氏/芦田氏)  源満快流  朝行 より続く[75]  


   依田備前守津補良玄
  ┃
  信守
   ┣━━━┓
  信蕃    信幸
   ┣━━━┳━━━┓
  康国    康勝    康寛
<戦国時代 - 織豊時代>  (依田氏/相木氏)
  系未詳
   ┃
 相木昌朝(依田昌朝)
   ┃
  常林

脚注

編集

注釈

編集
  1. ^ 尊卑分脈』清和源氏系図では信濃の名族諏訪氏の中世以降の系譜を依田氏に連ねるものともしている。なお同時期の諏訪氏をめぐる系譜は複数存在しており、その詳細は定かではない。
  2. ^ 吾妻鏡』の「乃貢未済の庄々注文」の中に依田庄が記載されている。依田庄の成立時期は不明であるが、前斎院御領として記されているのは鎌倉時代である。
  3. ^ 素戔嗚が有した、「天川依田」は、荒れた不作の土地であった。しかしながら、固有名詞に用いられる「依」が、皇統以前、すなわち神武天皇よりも前の時代の人物や国名に用いられている史実は特筆に値する。「依」が付く人名には、神武天皇の母とされる玉依姫命など多数存在する。人名以外では、建依別(土佐国)、飯依比古讃岐国)、天之狭手依比売(津島)などが挙げられる。
  4. ^ 宝賀氏は「上古に分かれた三輪氏同族の都佐国造の後裔ではないかと思われる」としている。
  5. ^ 歴史的な資料価値には乏しいが、『日本霊異記』には、他田舎人蝦夷とともに、大伴連忍勝が信濃国小県の出身と記されている。
  6. ^ 1973年に刊行された「北佐久郡志」(北佐久郡市役所編)においては、(滋野)盛忠が芦田七郎・信州依田祖と記された「信州滋野氏三家系図」を掲げて滋野氏の家系を説明しているが、滋野氏の後裔として依田氏を説明していない。
  7. ^ 平家物語によれば「木曽は依田城に有りけるが云々」と記されている。
  8. ^ 平家物語や源平盛衰記などによれば、余田次郎が従臣したとあり、上田市誌は余田次郎を依田次郎と解している
  9. ^ 八田氏の始祖である八田知家は頼朝の弟とされている。しかし、知家の子の知基は茂木氏の祖であり、尊卑分脈によれば、出自は藤原北家とされている
  10. ^ 南北朝初期(1330年)頃、飛騨国依田義胤が依田庄を奪回したとする説[19]もある
  11. ^ 天皇の補佐や詔勅宣下、叙位など朝廷に関する職務全般を担当した中務省の業務を実質的に統括する職位。
  12. ^ 大日本史料第六編之四十九には、「南朝天授三年・北朝永和三年正月八日 幕府評定始、是日、依田元信ヲ評定衆ニ加フ」とあり、花営三代記に「八日、御評定始、御座 佐々木大膳大夫高秀、管領武蔵守細川頼之、二階堂中務少輔行光、問注所町野遠江入道信方、御硯役 問注所代町野掃部助信兼、奏事 飯尾美濃守貞行、孔子 飯尾左近将監国輝」と記され、御座に依田元信が座した。群書類従所収「御評定着座次第」によれば、永和4年(1378年)に開かれた「御評定」においては、正面の御座には将軍足利義満が構え、将軍の右手の側には、管領細川武蔵守頼之、中原掃部頭能直、町野刑部少輔長康、左手側には京極高秀、二階堂中務少輔行照、依田左近大夫入道元信(時朝)が座っていたとしている。義満以外をもって評定衆と呼ばれる。事務方である御硯、奉事、孔子の3人が下方に控えており、この御評定では、孔子の席に諏訪神左衛門尉がついていた。
  13. ^ 信濃に領地があった武家で評定衆となったのは依田氏のみとする旨を指摘するのは、「丸子町誌」(1992)、「佐久市志」(1993)、「上田市誌」(2001)である。その一方で、それに遡る1987年に編纂された、「長野県史」(通史編 第三巻 中世二)においては、室町幕府の評定衆、幕府奉行として活躍した信濃武士として、まず第一に諏訪氏を挙げている。その論拠の出典は、諏訪氏の作による「神氏系図」となっている。「等持院殿(尊氏)征夷大将軍のはじめ、夢窓国師に仰せて信州よりこれ(諏訪円忠)を召し上げられる。右筆方衆として他と異なる奉公のしだい別記これあり。。。」(神氏系図)
  14. ^  大井氏が支配する佐久郡に進出できたのは、幕府奉行人として信濃に下向した、依田左衛門大夫季□の中央工作とする説がある。この説によれば、依田氏は、この流れに乗り芦田郷に進出し芦田を称したという。仮に芦田下野守が依田氏であったとするならば、後述する第8代将軍足利義政の命により芦田下野守が討伐された暁には、依田氏の在京、在府いずれの地位をも失した可能性は高い
  15. ^ 「日本姓氏家系大辞典」によれば、滋野滋氏王ー蔵人淳重ー又三郎為重ー法師僧光ー盛弘ー芦田七郎盛忠ー備前守朝守ー下野守氏久とある。
  16. ^ 市川武治(1993)P7には、高井郡井上一族米持次郎光遠と共に、芦田氏を滅ぼし、依田氏が芦田に入部して芦田を名乗るようになったとある。「北佐久郡誌」にも同様の記述がある。また、武田光弘(1975年)P102では、「(依田)経光の時代に佐久郡芦田村に移住した」事実を記している。
  17. ^  武田光弘(1975年)P36、市川武治(1993)P9によれば、いずれもが滋野氏の家系となる。
  18. ^ 後妻が原因不明の病で急死、布施、小平両氏は泥酔後に沢に転落して死亡、玄義一派の者たちにも良からぬことが続いたうえ、天候不順により領内の農作物が凶作となった
  19. ^ 御嶽堂の場合、古代から続く英多社との合祀とされる。
  20. ^ 海野、禰津、真田のいずれの氏も滋野氏。
  21. ^ 笛吹峠合戦では「上州勢の諸手には、板垣駿府守を大将として、栗原左衛門慰詮冬・日向大和守・小山田左衛門慰・小宮山丹後守・逸見・勝沼・小會・南部に、信州先方蘆田下野守・相木市兵衛慰を差副へられ、其勢 都合七千餘人」。海野合戦では「海野平に戦ふべしとて、則ち彼地に押し押し出さる。(中略)先ず先手の右の方は小山田備中守。信州先方の相木市兵衛慰・望月甚八・蘆田下野守……」。北条攻めの相模川渡河では「斯くて、相模川を渉さるべしとて、其陣列を定めらる。先人は、内藤修理正昌豊・小山田左衛門慰信茂・蘆田下野守・小山田備中守・安中左近・保科弾正忠・諏訪五郎・相木市兵衛……」
  22. ^ 「二万の人数、手分・手腑部府・手与、此備八ヶ条之事。(中略) 八 二、三百宛の備五手ハ、千五百、遊軍也。右を信玄公御家にハ、うき勢と申し候。付、是ハ敵城も攻取、はきて捨に、此遊軍に申付ク。又敵城責取、能城とて抱候へば、此遊軍を番手に置。(中略)此遊軍を信玄公御家にハ、浮勢と申し候。去程に、信州先方侍大将足田下野(芦田下野守)、浮勢の頭也。以上」「甲陽軍鑑末書」(下巻下、七)
  23. ^ 「妙法寺法」には「甲州府中に一國大人様を集り居給候」とあり、「一國大人様」とは、武田家臣中の侍大将級を指す
  24. ^ 「芦田下野屋敷」と呼ばれていた
  25. ^ 「高知席」は家老5人と家老次席の城代1人を輩出する家柄を示す。長野県立歴史館
  26. ^ 佐久市志には「芦田氏(=芦田下野守)は小県郡丸子の依田一族と推定されている」と記述されており、古文書等の根拠は示されておらず、執筆者の推測に止まっている。
  27. ^ 当時の芦田氏が依田氏流だったならば幕府職に就いていた依田氏は停任(ちゃうにん:ちょうにん)などの憂き目に逢った可能性は大きいはずである。
  28. ^ 康真が越前に移封してからは、康真の子孫は芦田姓を名乗った。

出典

編集
  1. ^ 信濃史源考(一) (2001)PP10-12
  2. ^ 寛政重修諸家図(1964)PP205
  3. ^ 小県郡史(1922)PP300ー301
  4. ^ 国史体系第二巻(1897)P499
  5. ^ a b 太田亮(1963)P6528
  6. ^ 太田亮(1963)P5971
  7. ^ 志賀剛(1987)PP258-259
  8. ^ 奈良県史(1987)P366
  9. ^ 宝賀寿男(2015)P185
  10. ^ 太田亮(1963)P1059
  11. ^ 小林栄太郎、遠藤肇(1922)PP247-250
  12. ^ 上田・小県誌刊行会(1986)P297
  13. ^ 武田光弘(1975)P28
  14. ^ 武田光弘(1975)P 117
  15. ^ 上田・小県誌第一巻歴史編上(二)古代中世(1980)P225
  16. ^ 上田市誌歴史篇4『上田の荘園と武士』 (2001)PP44-45
  17. ^ 上田市誌歴史篇4『上田の荘園と武士』 (2001)P50
  18. ^ a b 上田・小県誌第一巻歴史編上(二)古代中世(1980)P297
  19. ^ a b c 市川武治(1993)P179
  20. ^ 上田・小県誌第一巻歴史編上(二)古代中世(1980)PP297-298
  21. ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)P147「中世法制史料集(一)鎌倉幕府法」追加法701「鎌倉遺文」20484
  22. ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)「吾妻鏡」PP144-145
  23. ^ 吾妻鏡
  24. ^ 上田・小県誌第一巻歴史編上(二)古代中世(1980)PP299
  25. ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)PP145-148
  26. ^ 依田(2012)P57
  27. ^ 桃崎(2020)P 20
  28. ^ a b 桃崎(2020)P 23
  29. ^ 長野県史(1983)P 48
  30. ^ 長野県史(1983)P 49
  31. ^ 長野県史(1983)P 28~ 29
  32. ^ 長野県史(1983)P 36
  33. ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)PP161-163 群書類従所収「御評定着座次第」「花営三代記」「後愚昧記」・「奥山庄資料集」「信濃史料」「永享以来御番帳」「文安年中御番帳」「蜷川元親日記」「読史総覧」所収「室町幕府奉行一覧」等参考
  34. ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)P161
  35. ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)PP161-163 群書類従所収「御評定着座次第」「花営三代記」「後愚昧記」・「奥山庄資料集」「信濃史料」「永享以来御番帳」「文安年中御番帳」「蜷川元親日記」「読史総覧」所収「室町幕府奉行一覧」等参考。
  36. ^ a b 市川武治(1993)P180
  37. ^ 佐久市志(1993)P435
  38. ^  「古代天皇家と浅間山」柳沢賢次稿・千曲(2006)P41
  39. ^ 佐久市志(1993)P411
  40. ^ 長野県史(1987)P128-133
  41. ^ 佐久市志(1993)P356-360
  42. ^
    大井越前守と芦田下野守不快の事、然るべからざる候。早々和睦すべきの旨仰せ出され候。よって東国の面々御教書なされ候おわんぬ。若し尚事行かずんば、美濃・越後の御差し遣わさるべきの由、沙汰申すべく候の段堅く仰せ含めらるべく候以上 二月十七日(永享七年) 小笠原殿 足利義政 花押
    —市川武治(1993)PP6-7
  43. ^ 市川武治(1993)P9
  44. ^ 丸子町誌 歴史編 上(1992)P186「芦田下野守のこと、降参せしむるの由、注進到来、尤も神妙に候、伃って太刀一腰遣わし候なり。 八月三日(永享八年) 足利義政 花押 小笠原治部大輔入道殿」(信濃守護小笠原正透への感状)
  45. ^  丸子町誌 歴史編 上(1992)P186
  46. ^ 市川武治(1993)P8
  47. ^ a b 市川武治(1993)P 15
  48. ^ 山梨依田会(1999)P180
  49. ^ 山梨依田会(1999)PP93−94
  50. ^ 市川武治(1993)P 19
  51. ^ 日本家系協会出版部(1975) 
  52. ^ 市川武治(1993)P 20
  53. ^ a b 市川武治(1993)P 23
  54. ^ 市村到(2016)P102
  55. ^ 市村到(2016)P28 
  56. ^ a b 市村到(2016)P188
  57. ^ 市村到(2016)P189
  58. ^ 市川武治(1993)P P24-25
  59. ^ 市川武治1993年)P 25
  60. ^ 市川武治(1993)P 25
  61. ^ 鈴木将典/戦国史研究会(2017)P215
  62. ^ 市村到(2016)P261
  63. ^ 市川武治(1993)P191
  64. ^ 鈴木将典/戦国史研究会(2017)P226-229
  65. ^ 長野県立歴史館|(2011)P14
  66. ^ 長野県立歴史館|(2011)P16
  67. ^ 市村到|(2016)P432
  68. ^ a b c 市村到|(2016)P458
  69. ^ 長野県立歴史館|(2011)P16
  70. ^ a b 市川武治(1993)P 6
  71. ^ 佐久市志(1993)P356
  72. ^ a b 市川武治(1993)P 7
  73. ^ 市川武治(1993)P P8ー9
  74. ^ 尊卑分脈(1904)第8巻・清和源氏満快流P28
  75. ^ 寛政重修諸家譜第三百五十六

参考文献

編集
書籍
  • 吉川牛七 編『尊卑文脈』吉川弘文館、1904年7月。 
  • 市川武治『もう一人の真田・依田右衛門佐信蕃』櫟、1993年12月。ISBN 4900408506 
  • 市村到『戦国三代の記』悠光堂、2016年9月。ISBN 9784906873784 
  • 上田市誌編さん委員会 編『上田の荘園と武士』上田市〈上田市誌 ; 歴史編 4〉、2001年10月。 NCID BA44882498 
  • 近藤敏喬『古代豪族系図集覧』東京堂出版、2006年9月。ISBN 4490202253 
  • 志賀剛『式内社の研究 第二巻 宮中・京中・大和』雄山閣出版、1977年。ISBN 4639000839 
  • 鈴木将典「依田松平氏の信濃佐久郡支配」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 東国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-012-9
  • 武田光弘『依田一族』日本家系協会出版部、1975年6月。 
  • 田中豊茂『信濃中世武家伝 : 信濃武士の家紋と興亡』信濃毎日新聞社、2016年11月。ISBN 9784784072989NCID BB22538394 
  • 茅野市神長官守矢史料館 編『神長官守矢史料館のしおり : 長野県茅野市』茅野市神長官守矢史料館、2015年7月。 
  • 長野県立歴史館 編『武士の家宝 : かたりつがれた御家の由緒』長野県立歴史館、2011年5月。 
  • 奈良県史編集委員会 編『奈良県史 5.神社』池田源太,宮坂敏和編、名著出版、1986年。ISBN 462601335X 
  • 塙保己一 編『続群書類従』続群書類従完成会、東京、1923年12月。 
  • 宝賀寿男『三輪氏 古代氏族の研究⑦』青垣出版、2015年8月。ISBN 9784434208256 
  • 丸子町誌編纂委員会 編『丸子町誌』 歴史編 上、丸子町誌刊行会、1992年3月。 NCID BN0764543X 
  • 山梨依田会『依田姓の歴史とあゆみ : 創立10周年記念誌』山梨依田会、1999年8月。 
  • 依田武勝『武田騎馬軍団秘史』叢文社、2012年5月。ISBN 9784794706874 
  • 小山愛司 編『信濃史源考(一)』歴史図書社、1975-11。 
  • 小山愛司 編『信濃史源考(二)』歴史図書社、1975-11。 
  • 佐久市志編纂委員会 編『佐久市志』佐久市志刊行会〈歴史編(二)中世〉、1993年7月。 
  • 上田・小県誌刊行会 編『上田・小県誌』小県上田教育社〈第一巻歴史編上(二)古代中世〉、1980年5月。 
  • 藤枝市史編纂委員会 編『藤枝市史上巻』藤枝市、1970年1月。 
  • 藤枝市史編さん委員会 編『藤枝市史 通史編上 原始・古代・中世』藤枝市、2010年3月。 
  • 大久保彦左衛門 著、小林賢章 編『将軍家と譜代大久保家 三河物語(下)』教育社、1980年1月。 
  • 大久保彦左衛門 著、斎木一馬、岡山泰四、相良亨 編『三河物語•葉隠』岩波書店〈日本思想体系26〉、1974年6月。 
  • 大久保彦左衛門 著、中田祝夫 編『原本 三河物語 研究・釈文篇』勉誠社、1970年9月。 
  • 東信史学会 編『千曲』 第130号、東信史学会、2006年7月。 
  • 小県郡役所 編『小県郡史・本篇』明治文献、1922年10月。 
  • 長野県 編『長野県史・通史編』長野県史刊行会、1987年3月。 
  • 高柳光寿・岡山泰四・斎木一馬編 編『新訂 寛政重修諸家譜第6』続群書類従完成会、1964年12月。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料第六編之四十九』東京大学出版会、2016年3月。ISBN 9784130902991 
  • 桃崎有一郎『室町の覇者 足利義満』筑摩書房、2020年1月。ISBN 9784480072795 
  • 望月二郎 編『国史大系第二巻』経済雑誌社、1897年4月。 
  • 野田政和他 編『府中市郷土の森博物館紀要』 第27号、公益財団法人府中文化振興財団 府中市郷土の森博物館、2014年3月。 
  • 太田亮『姓氏家系大辞典 第三巻』角川書店、1963年11月。 
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成 上巻』古代氏族研究会、1986年4月。 
史料
  • 『日本書紀』。 
  • 『続日本紀』。 
  • 『吾妻鏡』。