佐々野 利彦(ささの としひこ、1911年明治44年)11月2日[1] - 1975年昭和50年)7月12日[2])は、日本体操競技選手で、指導者も務めた。日本オリンピック委員会常任委員、日本体操協会副会長[2]

佐々野 利彦
個人情報
国籍日本の旗 日本
生誕 (1911-11-02) 1911年11月2日
長崎県南松浦郡福江町(現・五島市
死去 (1975-07-12) 1975年7月12日(63歳没)
東京都文京区
スポーツ
競技体操競技

長崎県南松浦郡福江町(現・五島市)出身[3]。日本体育会体操学校(現・日本体育大学)卒業[3]1932年ロサンゼルスオリンピックに出場した[1][4]

1964年東京オリンピックでは日本体操チームの総監督を務め、技の難度を示す「ウルトラC」という言葉を普及させたとする説がある[5]

1975年7月12日、肝臓癌のため順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。63歳没。同年7月28日、岸記念体育会館の地下講堂で日本体操協会・日本オリンピック委員会・日本体育大学など7団体による合同告別式が行われた[6]

脚注

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  1. ^ a b Toshihiko Sasano - Olympedia(英語)
  2. ^ a b 『日本スポーツ50年史』ベースボール・マガジン社、1979年、p.461。
  3. ^ a b 『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』日本スポーツ協会、1933年、サノ部14頁。
  4. ^ Toshihiko Sasano Olympic Results”. Sports Reference LLC. 2020年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年7月18日閲覧。
  5. ^ ウルトラC[体操競技]」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』https://kotobank.jp/word/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9C%5B%E4%BD%93%E6%93%8D%E7%AB%B6%E6%8A%80%5Dコトバンクより2022年5月21日閲覧 
  6. ^ 『日本アマチュアスポーツ年鑑 1976年版』ぎょうせい、1976年、p.81。