伊藤梅子
伊藤博文の継妻。下関の芸妓。女流歌人。木田久兵衛(港湾労働者)の長女。木田幾三郎の姉。子に伊藤貞子(1866-1869、長女、夭逝)。
伊藤 梅子(いとう うめこ、嘉永元年11月8日(1848年12月3日) - 大正13年(1924年)4月12日[1])は、伊藤博文の継妻、女流歌人[1]。
生涯
編集1848年、木田久兵衛の長女として長門国(現山口県)で誕生。赤間関(下関)稲荷町の置屋「いろは楼」の養女となり、芸妓となって「小梅」を名乗る。1864年(元治元年)頃、イギリスからの帰国間もない伊藤博文と出会う。当時、博文は既に入江九一・野村靖の妹であるすみ子と結婚していたが、博文とすみ子は1866年(慶應2年)に離婚し、梅子が継妻となった。その後、同年長女貞子(1868年没)、次女生子(1868年9月19日 - 1934年1月2日)を生み、養女朝子(1876年 - 1944年)、養子博邦(幼名勇吉、井上光遠の子、1870年 - 1931年)、眞一(1890年 - 1980年)、文吉らを育て上げた。
夫の博文が初代内閣総理大臣となったことにより、梅子もまた初の内閣総理大臣夫人となった。その様子は芥川龍之介の『花火』に記述されている。梅子は勝気で向学心に富み克己心が強く、下田歌子に和歌を学び、英語の習得にも心がけた。常々身だしなみに気を配り、婦徳の鑑と称された。
1909年10月26日に博文が暗殺された際には、梅子は涙ひとつ見せなかったが、自室で「国のため光をそえてゆきましし 君とし思へどかなしかりけり」と詠んだとされる。その後、滄浪閣(神奈川県中郡大磯町)を出て東京の生子の嫁ぎ先の末松謙澄邸などを転々とし、1924年4月12日に死去した。
脚注
編集参考
編集- 「伊藤梅子」『日本女性人名辞典』[普及版]、日本図書センター、1998年 ISBN 4-8205-7881-2
- 父逝いて五十年 伊藤博文小伝記 伊藤眞一1959年 伊藤博文追頌会
- やっぱり妻には かないません! 初代総理大臣 伊藤博文の妻 梅子 歴史ヒストリア NHK 2015年8月26日
先代 なし 松方満佐子 松方満佐子 大隈綾子 |
内閣総理大臣夫人 1885年12月22日 - 1888年4月30日 1892年8月8日 - 1896年8月31日 1898年1月12日 - 1898年6月30日 1900年10月19日 - 1901年5月10日 |
次代 黒田滝子 松方満佐子 大隈綾子 桂可那子 |