仙石久忠
日本の安土桃山時代~江戸時代初期の武将・検校。信濃小諸藩初代藩主仙石秀久長男で、失明による廃嫡後、信濃佐久郡内3050貫文領した
仙石 久忠(せんごく ひさただ、生年未詳 - 慶長7年(1602年)8月)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。信濃小諸藩主仙石秀久の長男。母は本陽院。別名・関都(菊都)。子に久治。
来歴
編集壮年にして失明したため後嗣からはずされ、京に住して関都(菊都)と名乗り、検校となった。佐久郡耳取組にて、合力米3,050貫文の地を領した。京にて病にて没して、佐久郡の大照庵に葬られたが、のちに上田の芳泉寺に改葬された。
子孫は、筆頭家老を務めた。久治、政治と続き、政治の子の靭負政時は同じく家老職を勤めていたが、嗣子のいなかった藩主仙石政明の養子となり仙石政房と改名し、宗家を継いで出石藩第2代藩主となった。
関連項目
編集参考文献
編集- 「寛政重修諸家譜 巻第306」