仏坂の戦い(ほとけざかのたたかい)は、遠江国で起きた、武田信玄軍の西上作戦別働隊山県昌景山家三方衆らと、徳川家康軍の井平城城主井平直成井伊谷三人衆鈴木氏らとの戦いである。

概要

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山県昌景は柿本城を攻め、柿本城城主鈴木重好は敵わじと見て、家康軍と合流するため交渉の末城を明け渡し、井平城に退却[1]。だが浜松城にいた家康は駿河国に侵攻していた信玄本隊に備えるため、この戦いに援軍を出す余力がなかった。

1572年(元亀三年)10月22日、仏坂の地で山県軍3000から4000人が井平・鈴木軍500と激突、小勢の井平・鈴木方は壊滅。井平直成、鈴木重俊を始め88名が討ち死に[2]。その後井平城に籠城するが、昌景は井平城を落城させた。井伊谷城城主の井伊直虎も居城を捨て、浜松城に逃れた。昌景は井伊谷の龍潭寺二宮神社などを焼き払い、二俣城を攻めていた武田信玄の本体と合流した。

仏坂の戦いで討ち取られた井平・鈴木方の88名の将兵の墓と伝承されている「ふろんぼ様」が現代に残る[3]。家康はこの戦いについて後々まで後悔していたという。「当代記」に「この時、家康公、井平の人、数を打ち果たされ、こと安ずるべき処に、信玄と合戦これ有るべき内存にて、この儀に及ばれざるか。家康公、已来後悔し給う。」とある。

脚注

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  1. ^ 仏坂古戦場 (ほとけざかこせんじょう)”. 公益社団法人 静岡県観光協会. 2023年5月23日閲覧。
  2. ^ 井平城(浜松市北区引佐町伊平) 武田の予想超える行軍裏付け”. 産経新聞 (2017年5月7日). 2023年5月23日閲覧。
  3. ^ [1]