久米平内

1616-1683, 江戸時代前期の武士、剣術家

久米 平内(くめ の へいない、1616年2月20日 - 1683年7月29日)は、江戸時代前期に実在した日本の武士剣術家である[1][2][3]粂 平内(読み同)とも表記する[2][3]。出生名は兵藤 長守(ひょうどう ながもり)[1][2]、通称は平内兵衛(へいないひょうえ)[1]講談に取り上げられたため、その人物像は伝説的とされる[2][3]

 
久米 平内
『豊国揮毫奇術競 粂平内左衛門長盛』、歌川豊国
時代 江戸時代前期
生誕 元和2年1月4日
1616年2月20日
死没 天和3年6月6日
(1683-07-29) 1683年7月29日(67歳没)
改名 兵藤長守、久米平内(粂平内)、平内兵衛
別名 粂 平内 (くめ の へいない)
戒名 無関一素居士
三河国挙母藩
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人物・来歴

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元和2年1月4日グレゴリオ暦 1616年2月20日)、肥後国熊本(現在の熊本県熊本市)に「兵藤長守」として生まれる[1]。「久米」(粂)姓は妻のものとされる[1]

三河国挙母藩(現在の愛知県豊田市中心部)に仕え、そののちに江戸赤坂(現在の東京都港区赤坂)で道場を開き、武術を教えた[1][3]。赤坂時代、千人斬りの願を起こし、夜ごと辻斬に出たとされる[2][3]。その後、出家した鈴木正三に入門し、座禅を修めた[1][3]浅草浅草寺の境内、仁王門外に自らの「仁王坐像」を設置し、罪業消滅を願い、通行人に踏みつけさせたとされる[2][3]。浅草寺の宝蔵門脇に「久米平内堂」が現存するが、ここに安置されたとされる平内像は「踏み付け」が「文付け」に解されて、縁結び信仰の対象となった[1][2][3]

天和3年6月6日(グレゴリオ暦 1683年7月29日)、死去した[1]。享年68(満67歳没)。 戒名は無関一素居士[1]

伝説・物語

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歌川豊国(1769年 - 1825年)描く『粂平内左衛門長盛』、一勇斎国芳(歌川国芳、1798年 - 1861年)描く『見立十二支の内丑 粂平内左衛門・松若丸』は、伝説上の平内のデフォルメされた姿である。

1808年(文化5年)、曲亭馬琴が執筆し一柳齋豊廣こと歌川豊広が口絵を描き、慶賀堂が出版した『巷談坡堤庵』は、平内のほか、三浦屋薄雲(生没年不詳、17世紀)、向坂甚内(生年不詳 - 1613年)[4]土手の道哲らの説話が盛り込まれている[5]。同書が描く平内は、武蔵国豊島郡渋谷郷(現在の東京都渋谷区)の渋谷庄司宗順の屋敷に囲われた剣術の達人として登場する[5]。平内は、数年前まで九州浪人であったが、壮年になってから土地を離れて江戸で剣術指南を始め、宗順も指導を受けるがあまりの貧しさに居宅を提供、平内はこれを恩に着る[5]。宗順は三浦屋の薄雲太夫と出会うが、薄雲は向坂甚内に斬られるが子どもを生んで死に、宗順の夢枕に立つが、これを妖怪と見定めて平内は退治する[5]。宗順は薄雲の子を引き取り瀬太郎と名づけ、長男の金王の弟として育て、最終的に薄雲の仇討ちに成功するが、平内は、薄雲が実の娘であったことを告白する[5]

1912年(明治45年)7月、立川文庫第32編として刊行された『武士道精華 粂平内』には、剣術指南の阪田藤十郎、荒木又右衛門(1599年 - 1638年)、幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)、白柄組・水野十郎左衛門(1630年 - 1664年)らが登場する[6]。1916年(大正5年)、大川屋書店の八千代文庫第14編として刊行された『粂平内』にも、立川文庫同様に幡随院長兵衛が登場して平内の危難を救い、男嫌いの芸者「小春」が登場、水野十郎左衛門がこれを斬ろうとする[7]。長兵衛がとりもって平内は小春と結婚するが、長兵衛は湯殿で殺され、平内が水野を討ち取るという話になっている[7]。1918年(大正7年)、博文館が刊行した、三代目小金井蘆洲による講談本『粂平内』によれば、平内の名は「粂平内兵衛長守」、父は「真野平左衛門長親」とされ、[8]。剣術は父から学んだ卜伝流津和野城亀井氏に親子で仕官したという設定である[9]。阪田藤十郎が平内を(柳生宗矩、1571年 - 1646年)に推挙[10]、その後柳生新陰流の免許皆伝している[11]。同ヴァージョンにも、荒木又右衛門、幡随院長兵衛、水野十郎左衛門は登場し、平内は、最終的に初期に助けた三輪屋お里と結婚する[12]

フィルモグラフィ

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浅草寺久米平内堂英語版

日本映画データベースにみられる「久米平内」(粂平内)の登場する劇映画一覧である。末尾の俳優が平内を演じた。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 久米平内デジタル版 日本人名大辞典+Plusコトバンク、2012年7月25日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g 久米平内デジタル大辞泉コトバンク、2012年7月25日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g h 粂平内・久米平内大辞林 第三版、コトバンク、2012年7月25日閲覧。
  4. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『向坂甚内』 - コトバンク、2012年7月26日閲覧。
  5. ^ a b c d e 巷談坡堤庵曲亭馬琴、ふみくら、高木元、2012年7月26日閲覧。
  6. ^ 武士道精華 粂平内国立国会図書館、2012年7月26日閲覧。
  7. ^ a b 粂平内 怒濤庵、国立国会図書館、2012年7月26日閲覧。
  8. ^ 蘆洲、p.2-3.
  9. ^ 蘆洲、p.12-13.
  10. ^ 蘆洲、p.112.
  11. ^ 蘆洲、p.181.
  12. ^ 蘆洲、p.241.

参考文献

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  • 『巷談坡堤庵』、著曲亭馬琴、画一柳齋豊廣慶賀堂、1808年
  • 『武士道精華 粂平内』、草化山人、立川文庫第32篇、1912年7月
  • 『久米平内剛力物語』山東京山、『絵本稗史小説 第2集』所収、博文館、1917年
  • 『粂平内』、三代目小金井蘆洲、博文館、1918年
  • 『番町皿屋敷 実説怪談』、悟道軒円玉今村次郎、博文館、1922年
    • 『第十七席 三平大淀にお菊の横死を物語る事、并に劍客久米平内兩人の仇討助勢を引受ける事』
    • 『第二十四席 主膳公儀の威光にて憤りを晴らさんとする事、并に久米平内素性の事』
  • 『人間味 修養道話』、加藤咄堂森江書店、1926年
  • 『民俗信仰の玩具』、万造寺竜山中登書物展望社、1938年
  • 『久米平内像と浅草寺』、磯ケ谷紫江、紫香会、1958年11月
  • 『浅草寺境内独案内』、磯ケ谷紫江、紫香会、1959年

関連項目

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外部リンク

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