与那城ジョージ
与那城 ジョージ(よなしろ ジョージ、本名:与那城 ジョルジ[1]、1950年11月28日[5] - )は、ブラジル・サンパウロ州出身の日系二世[6]の元サッカー選手、サッカー指導者。
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名前 | ||||||
本名 | 与那城 ジョルジ[1] | |||||
愛称 | チグリーニョ[1]、ジョージ[2] | |||||
カタカナ | ヨナシロ ジョージ | |||||
ラテン文字 |
Yonashiro Jorge[3] | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
日本 ブラジル (二重国籍) | |||||
生年月日 | 1950年11月28日(74歳)[4] | |||||
出身地 |
ブラジル サンパウロ州[4] | |||||
身長 | 170cm | |||||
体重 | 66kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW、MF | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
GRトウキョウ | ||||||
1972-1985 | 読売クラブ | 239 | (92) | |||
通算 | 239 | (92) | ||||
代表歴 | ||||||
1985 | 日本 | 2 | (0) | |||
監督歴 | ||||||
1986-1990 | 読売クラブ | |||||
1994 | 京都パープルサンガ (代行) | |||||
2004-2006 | FC琉球 | |||||
2007-2010 | ギラヴァンツ北九州 | |||||
2013-2014 | ブラウブリッツ秋田 | |||||
2017-2019 | J.FC MIYAZAKI | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
来歴
編集沖縄県からブラジルに移民した両親の元で5人兄弟の末っ子として生まれ、グレミウ・ヘクレアチーヴ・トキョウ(Grêmio Recreativo Tokyo)に所属して日系人リーグで活躍した。
1972年、日本サッカーリーグ2部所属の読売サッカークラブに入団[4]。同クラブの1部昇格とその後のタイトル獲得の立役者として貢献し「ミスター・ヨミウリ」と呼ばれた。
クラブ側の外国人選手を一人でも多く起用したいという方針により帰化を勧められ、1985年1月に日本に帰化。登録名は与那城ジョージ。帰化当初は日本代表入りは想定していなかったが、森孝慈監督の抜擢により同年に行われた1986 FIFAワールドカップ・アジア予選の最終予選2試合に出場した。しかし既に34歳となった与那城はこのワールドカップ予選での戦いを通じて、自分のプレーがトップレベルにないことを実感し、引退を決意した[7]。
引退後は指導者の道へ進み、1986年から読売クラブの監督に就任した。監督経験の無い与那城であったが、ブラジルから招聘したジノ・サニ特別コーチのサポートもあり、監督就任1年目で日本リーグ、天皇杯全日本サッカー選手権大会の二冠を成し遂げた。1989-90シーズン終了後に読売クラブの監督を退任した。
1992年から1993年まで名古屋グランパスエイトのヘッドコーチ[4](1993年のシーズン終盤には平木隆三監督が病気入院ということになり、監督不在という形ながら代理で指揮を執った[8])、1994年に京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)の監督代行[4]、1996年に京都のヘッドコーチを歴任[4]。
2004年、当時沖縄県1部リーグ所属のFC琉球の監督に就任。2004年に九州サッカーリーグ昇格、2005年に日本フットボールリーグ(JFL)昇格を果たした。2006年はJFL14位の成績に終わり、シーズン終了後に監督を退任した。
2007年、当時九州リーグ所属のニューウェーブ北九州(現:ギラヴァンツ北九州)の監督に就任。同年にJFL昇格、2009年にJリーグ昇格を果たした。2010年シーズンは、33試合連続未勝利のJリーグワースト記録を喫するなど、年間1勝の最下位。シーズン終了後に契約満了に伴い監督を退任[4][9][10]。
2017年よりJ.FC MIYAZAKIの監督に就任した[11]。2019年をもってJ.FC MIYAZAKIの監督を退任すると発表された[12]。
所属クラブ
編集- グレミオ・レクラチーボ・トウキョウ
- 1972年 - 1985年 読売クラブ
個人成績
編集国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1972 | 読売ク | 20 | JSL2部 | 9 | 5 | - | - | 9 | 5 | ||
1973 | 9 | 18 | 15 | - | - | 18 | 15 | ||||
1974 | 18 | 13 | - | ||||||||
1975 | 18 | 6 | - | - | 18 | 6 | |||||
1976 | 16 | 7 | 4 | 0 | 2 | 1 | 22 | 8 | |||
1977 | 17 | 7 | 2 | 1 | 3 | 1 | 22 | 9 | |||
1978 | JSL1部 | 18 | 5 | 6 | 2 | 2 | 1 | 26 | 8 | ||
1979 | 18 | 7 | 4 | 0 | 2 | 2 | 24 | 9 | |||
1980 | 18 | 4 | 2 | 0 | 3 | 0 | 23 | 4 | |||
1981 | 15 | 10 | 1 | 0 | 5 | 2 | 21 | 12 | |||
1982 | 18 | 5 | 1 | 0 | 3 | 0 | 22 | 5 | |||
1983 | 18 | 2 | 3 | 1 | 3 | 1 | 24 | 4 | |||
1984 | 17 | 6 | 2 | 1 | 4 | 2 | 23 | 9 | |||
1985 | 21 | 1 | 4 | 1 | 2 | 1 | 27 | 3 | |||
通算 | 日本 | JSL1部 | 143 | 40 | 23 | 5 | 24 | 9 | 190 | 54 | |
日本 | JSL2部 | 96 | 53 | 6 | 1 | ||||||
総通算 | 239 | 93 | 29 | 6 |
- JSL東西対抗戦(オールスター戦)5回出場(1979年、1980年、1981年、1983年、1984年)
- JSL東西対抗戦(オールスター戦)2得点(1979年、1983年)
- JSL東西対抗戦(オールスター戦)最優秀選手賞3回(1979年、1983年、1984年)
代表歴
編集出場大会など
編集試合数
編集
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1985 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
通算 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 |
出場
編集No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1985年10月26日 | 東京都 | 国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 | 韓国 | ●1-2 | 森孝慈 | ワールドカップ予選 |
2. | 1985年11月03日 | ソウル | 韓国 | ●0-1 | ワールドカップ予選 |
指導歴
編集- 1986年 - 1990年 読売サッカークラブ:監督[4][6]
- 1992年 - 1993年 名古屋グランパスエイト:ヘッドコーチ[4][6]
- 1994年9月-12月 京都パープルサンガ:監督代行[4][6]
- 1996年6月-12月 京都パープルサンガ:ヘッドコーチ (監督代行)[13]
- 東京ヴェルディ1969:普及部育成コーチ
- 2004年 - 2006年 FC琉球:監督[4][6]
- 2007年 - 2010年 ニューウェーブ北九州 / ギラヴァンツ北九州 :監督[4][6]
- 2013年 - 2014年 ブラウブリッツ秋田:監督[6]
- 2017年 - 2019年 J.FC MIYAZAKI:監督
監督成績
編集年度 | クラブ | 所属 | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 勝点 | 試合 | 勝 | 分 | 敗 | JSL杯/ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
1986-87 | 読売ク | JSL1部 | 優勝 | 29 | 22 | 11 | 7 | 4 | 1回戦 | 優勝 |
1987-88 | 5位 | 24 | 22 | 8 | 8 | 6 | 1回戦 | 優勝 | ||
1988-89 | 5位 | 32 | 22 | 8 | 8 | 6 | ベスト4 | ベスト8 | ||
1989-90 | 2位 | 46 | 22 | 13 | 7 | 2 | ベスト4 | ベスト4 | ||
1994 | 京都 | 旧JFL | - | - | - | ベスト8 | ||||
1996 | J | - | 24 | 15 | 8 | - | 7 | グループリーグ | 3回戦 | |
2004 | 琉球 | 沖縄県1部 | 優勝 | 25 | 9 | 8 | 1 | 0 | - | 3回戦 |
2005 | 九州 | 2位 | 42 | 18 | 8 | 1PK勝/1PK敗 | 3 | 3回戦 | ||
2006 | JFL | 14位 | 29 | 34 | 6 | 11 | 17 | 2回戦 | ||
2007 | 北九州 | 九州 | 優勝 | 54 | 20 | 17 | 1PK勝/1PK敗 | 1 | 予選敗退 | |
2008 | JFL | 10位 | 49 | 34 | 13 | 10 | 11 | 3回戦 | ||
2009 | 4位 | 58 | 34 | 16 | 10 | 8 | 1回戦 | |||
2010 | J2 | 19位 | 15 | 36 | 1 | 12 | 23 | 3回戦 | ||
2013 | 秋田 | JFL | 8位 | 50 | 34 | 14 | 8 | 12 | 2回戦 | |
2014 | J3 | 8位 | 34 | 33 | 10 | 4 | 19 | 2回戦 |
1994年は代行、1996年はヘッドコーチとして指揮。
脚注
編集- ^ a b c “海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(4)―ジョルジ与那城-1-チグリーニョの異名-兄とサロン、式で技磨く”. 2013年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年12月29日閲覧。 ニッケイ新聞 (2002年6月1日)
- ^ “海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(5)―ジョルジ与那城-2-二部リーグ初の外国人選手-風貌と技術注目集める”. 2013年12月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年12月29日閲覧。 ニッケイ新聞 (2002年6月4日)
- ^ “選手・スタッフ紹介”. ブラウブリッツ秋田. 2014年4月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l “与那城ジョージ監督 契約満了に伴う退任のお知らせ”. J's GOAL (2010年11月5日). 2013年12月23日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “与那城ジョージ”. ゲキサカ. 2019年12月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『与那城ジョージ氏 監督就任のお知らせ』(プレスリリース)ブラウブリッツ秋田、2013年1月17日 。2013年8月31日閲覧。
- ^ 海を渡ったサムライたち―日伯セレソン物語(6)―ジョルジ与那城-3-スピード通じず引退決意-34歳の遅過ぎた「日の丸」 ニッケイ新聞 2002年6月5日付記事(アーカイヴ)
- ^ Jサッカーグランプリ Jリーグイヤーブック1993 124-125ページ
- ^ ギラヴァンツ与那城監督退任 朝日新聞福岡・北九州版 2010.11.6付記事 (アーカイヴ)
- ^ ギラヴァンツ北九州 与那城監督退任 驚くサポーターら 西日本新聞 2010.11.6付記事 (アーカイヴ)
- ^ 『与那城ジョージ氏 監督就任のお知らせ』(プレスリリース)J.FC MIYAZAKI、2016年12月19日 。2016年12月19日閲覧。
- ^ 『与那城 ジョージ監督 契約満了に伴う退任のお知らせ』(プレスリリース)J.FC MIYAZAKI、2019年11月7日 。2019年11月7日閲覧。
- ^ “クラブガイド:京都サンガF.C.”. 日本プロサッカーリーグ. 2013年12月23日閲覧。
関連事項
編集外部リンク
編集- 与那城ジョージ - National-Football-Teams.com
- 与那城ジョージ - WorldFootball.net
- 与那城ジョージ - Transfermarkt.comによる選手データ
- 与那城ジョージ - Transfermarkt.comによる指導者データ
- 与那城ジョージ - J.League Data Siteによる監督データ