上野権太
上野 権太(うえの ごんた、1895年(明治28年)7月4日 - 1944年(昭和19年)3月31日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。鹿児島県出身。 海軍乙事件により遭難、殉職[1]。
上野 権太 | |
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第三戦隊幕僚時代 | |
生誕 |
1895年(明治28年)7月4日 日本 鹿児島県 |
死没 |
1944年(昭和19年)3月31日 フィリピン |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1917年(大正6年)-1944年(昭和19年) |
最終階級 | 海軍中将 |
経歴
編集- 大正6年(1917年)11月26日- 海軍機関学校第26期を卒業
- 大正7年(1918年)8月1日- 任海軍機関少尉
- 大正9年(1920年)12月1日- 任海軍機関中尉
- 大正11年(1922年)12月1日- 比叡分隊長心得
- 大正12年(1923年)12月1日- 任海軍機関大尉
- 大正13年(1924年)12月1日- 海軍大学校機関学生
- 大正15年(1926年)12月1日- 陸奥分隊長
- 昭和3年(1928年)12月10日- 第二潜水戦隊参謀
- 昭和4年(1929年)11月30日- 任海軍機関少佐
- 昭和6年(1931年)11月2日- 第三戦隊参謀
- 昭和7年(1932年)12月1日- 佐世保鎮守府参謀
- 昭和9年(1934年)11月15日- 任海軍機関中佐、軍令部部員兼海軍大学校教官
- 昭和11年(1936年)12月15日- アメリカ合衆国出張被仰付
- 昭和12年(1937年)12月1日- 海軍工機学校教官兼海軍砲術学校教官
- 昭和13年(1938年)11月15日- 任海軍機関大佐
- 昭和14年(1939年)11月15日- 海軍省教育局第三課長
- 昭和16年(1941年)9月25日- 第二遣支艦隊機関長
- 昭和17年(1942年)10月10日- 海軍工機学校教頭
- 昭和18年(1943年)9月1日- 連合艦隊司令部附
- 9月5日- 連合艦隊機関長
- 昭和18年(1943年)11月1日- 任海軍少将
- 昭和19年(1944年)3月31日- 海軍乙事件にて殉職、任海軍中将
関連項目
編集脚注
編集- 出典
参考文献
編集- 海軍歴史保存会『日本海軍史』(第九巻)、第一法規出版
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』、芙蓉書房出版