三遊亭花圓遊
三遊亭 花圓遊(さんゆうてい かえんゆう、安政3年5月頃 - 大正中期)は、落語家。本名∶佐々木 安太郎。
三遊亭圓朝一門定紋「高崎扇」 | |
本名 | 佐々木 安太郎 |
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生年月日 | 1856年 |
没年月日 | 不詳年 |
出身地 | 日本 |
師匠 | 初代三遊亭圓遊 四代目桂文楽 三代目柳家小さん |
名跡 | 1. 鶴澤文左衛門 (不詳) 2. 三遊亭花遊 (不詳) 3. 桂かん治 (? - 1887年) 4. 十寸見花州 (1887年 - ?) 5. 三遊亭圓窓 (? - 1889年) 6. 雀家翫之助 (1889年 - 1890年) 7. 三遊亭花圓遊 (1890年 - 1903年) 8. 柳家三語楼 (1903年) 9. 三遊亭花圓遊 (1903年) 10. 團洲楼圓馬 (1903年 - ?) 11. 三遊亭花圓遊 (不詳) |
活動内容 | 三味線 落語 幇間 |
所属 | 三遊派 江戸桂派 柳派 自由演芸会 |
経歴
編集若い頃は武家屋敷へ奉公に出ていたが、その時に妾とあいびき中のところを主人に見つかって逃走中に足を斬られたことから、その古傷のため以後は常に足を悪くしていた。
当初は鶴澤文左衛門の名で義太夫の三味線引きをしていた。明治10年代前半に初代三遊亭圓遊の弟子になって三遊亭花遊と名乗る。明治10年代後半に四代目桂文楽門下に移ってかん治となった後、1887年には幇間に転向して十寸見花州の名で吉原で活動していたが、復帰して三遊亭圓窓を名乗り、1889年1月には雀家翫之助に改名した後、1890年ころに花遊に戻って1898年3月には三遊亭花圓遊で真打に昇進する。
1903年7月には三代目柳家小さん門下で柳家三語楼(本来の初代、通説では代外)となるが、不都合があって東京にいられなくなり、花圓遊の名で地方廻りをするうちに、浪花節などとの合同で「自由演芸会」という会派を立て、8月に「團洲楼圓馬」の看板を上げる(烏亭焉馬や三遊亭圓馬と関係はない)。
しかし長続きせずに結局は花圓遊の名に戻って仙台に拠点を移し、最後は幇間をしていたという。1915年ころまでは活動が確認されているが、以後の消息は不明。
芸歴
編集人物
編集「舶来の馬」というあだ名があったが、これは背が高かったことから名づけられたという。
一時「面長家左圓治」と改名しようとした。これは、歌舞伎役者の市川猿之助の屋号である「澤瀉屋(おもだかや)」と市川左團次の名からヒントを得て考え出した名であるが、歌舞伎の側から苦情が出たため実現しなかった。