三浦環

日本の女性オペラ歌手

三浦 環(みうら たまき、1884年明治17年)2月22日 - 1946年昭和21年)5月26日)は、東京府東京市京橋区(現:東京都中央区京橋)出身の日本の女性歌手。

三浦 環
基本情報
出生名 柴田 環
生誕 1884年2月22日
出身地 日本の旗 日本 東京府東京市京橋区[1][2]
(現:東京都中央区京橋
死没 (1946-05-26) 1946年5月26日(62歳没)
日本の旗 日本 東京都本郷区富士町
(現:東京都文京区本郷)
東京帝国大学医学部附属病院
学歴 東京音楽学校
(現:東京芸術大学音楽学部)卒業
ジャンル オペラ
職業 歌手
活動期間 1911年 - 1946年
レーベル 日本ビクター
日本コロムビア

本名:柴田 環(しばた たまき)。日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手として知られる。十八番だったジャコモ・プッチーニの「蝶々夫人」にある“蝶々さん”と重ね合わされて「マダム・バタフライ」と称され、国際的に広く知られた。

生涯

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生い立ち

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1884年(明治17年)2月22日東京府東京市京橋区(現:東京都中央区京橋)で生まれる[1][2][注 1]。父親は静岡県城東郡下朝比奈村(現:御前崎市)出身で公証人である柴田孟甫(本名:熊太郎)、母は城東郡小沢村(現:菊川市)出身の永田登波で[2][4]、3歳から日本舞踊を、6歳から長唄を習い始める[5]。東京・虎ノ門の東京女学館へ入学後[1][5]東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)出身の教師である杉浦チカから音楽家になることを勧められ、1900年(明治33年)に東京音楽学校へ入学する[6]瀧廉太郎からピアノを、幸田延から声楽を学び、ヴァイオリンをアウグスト・ユンケルに師事するようになり[5][注 2]、私生活では入学直前に父・孟甫の勧めで陸軍の三等軍医正である藤井善一と結婚(7年後に離婚)する[7]

日本人初のオペラ

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東京音楽学校在学中の1903年(明治36年)7月23日旧東京音楽学校奏楽堂で、日本人の手によって初めて開催されたオペラ公演に出演して成功を収める[5][8][注 3]1904年(明治37年)に東京音楽学校を卒業後は、奨学金を得て研究科へ進むと同時に「授業補助」の辞令を受けて声楽の講師を担当するようになる[9]。環はのちに助教授となり、この間に山田耕筰らを指導した[10]1911年(明治44年)には帝国劇場に所属してレコードへの吹き込みを初めて行い、プリマドンナとして活躍する。このレコードでは日本で数多くの声楽家を育成したイタリア人テノール歌手で、環も師事していたアドルフォ・サルコリと共にオペラ「カヴァレリア・ルスティカ―」の一部も吹き込み、これが日本における本格的なクラシック音楽の最初のレコードとされている[11]。また、環が「蝶々夫人」の楽譜を最初に受け取ったのもサルコリである。

欧米各国での活躍

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1917年

1907年(明治40年)に離婚していた環は、1913年(大正2年)に両親と出身地が同じ静岡県医師(東京帝国大学医科附属医院の内科副手を経てシンガポールの三井経営ゴム植林地嘱託医)である三浦政太郎と再婚し、1914年(大正3年)に政太郎と共にドイツへ留学する。しかし同年に勃発した第一次世界大戦の戦火を逃れるためにイギリスへ移動。 1915年(大正4年)5月31日、ロンドンのオペラハウスで日本人女性初のプリマドンナとして「蝶々夫人」を演じて好評を博す[12]。同年、イギリスでの成功を受けて環は帰国せずに、そのままアメリカへ向かい、ボストンで初めて「蝶々夫人」を演じると好意的な批評を受け、そのままピエトロ・マスカーニの「イリス」をニューヨークサンフランシスコシカゴなどアメリカ各地で演じ、いずれも大成功を収めた。環は、メトロポリタン歌劇場へ最初に迎えられた日本人歌手である[8]。その後はヨーロッパへ戻り、ロンドンで現地の歌劇団であるトマス・ビーチャム歌劇団と共演した。

1918年(大正7年)に再びアメリカで「蝶々夫人」とアンドレ・メサジェの「お菊さん」を上演するが、後者は「『蝶々夫人』の焼き直しに過ぎない」と不評だった。それでも、日本のレコード会社だけではなくアメリカコロムビア社でリボンレーベルのレコードを録音して発売するなど精力的に活動を続け、1920年(大正9年)には再々度ヨーロッパへ戻り、モンテカルロバルセロナフィレンツェローマミラノナポリの各地にある歌劇場で公演を開く。1922年(大正11年)に帰国後は長崎県長崎市に留まり、「蝶々夫人」とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開催した。同年に発売したレコードも大ヒットし、同年11月の時点では東京市だけで約8万枚を売り上げた[13]

1924年(大正13年)に渡米後はサン・カルロ・オペラ団に出演し、1925年(大正14年)にはシカゴへ向かい、アルド・フランケッティから献呈された「浪子さん」を演じる。その後はイタリアで歌手活動を続け、1935年(昭和10年)にはシチリアパレルモで「蝶々夫人」出演通算2000回の大記録を達成した[2]

永住帰国

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シチリア島パレルモで「蝶々夫人」出演通算2000回を達成した環は永住帰国を決断し、1935年(昭和10年)11月に帰国する[2][14]

1936年(昭和11年)6月26・27日に、東京・歌舞伎座において開催された原語(イタリア語)による「蝶々夫人」公演に出演し、これが自身通算2001回目の出演となった[15][注 4]。これ以降は日本国内の各地でオペラへの出演やリサイタルの開催、レコーディングを行っていった[14]。なお、「蝶々夫人」は自身による日本語訳の歌詞にて上演したこともあった[17][注 5]

しかし、1941年(昭和16年)以降は太平洋戦争第二次世界大戦)が勃発し、戦火が激しくなった1944年(昭和19年)からは山梨県中野村(現:山中湖村)の山中湖へ疎開する[14]。環は同じく疎開した母・登波の看病を続けながら疎開先へピアノを持ち込み、地元の住民らと気さくに交流を楽しんだり、同じく疎開してきた多くの文化人らとの語らいを楽しんでいた[19]。また、子供好きであることから近所の子供たちに歌を教えるなど、充実した日々を送っていた[20]

終戦、死去

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太平洋戦争の終戦から4ヶ月ほどが経過した1945年(昭和20年)12月1日と7日に日比谷公会堂で開催されたリサイタルでは、フランツ・シューベルト作曲の「冬の旅」全24曲を昼と夜の2回ずつ計4回開催した。この一連の公演では、自身が疎開中に翻訳した日本語の歌詞が用いられている[14]

1946年(昭和21年)になると膀胱癌のために周囲から見ても明らかなほど衰弱し始め、同年3月には大東学園病院に入院した。既に一人では歩けない身体となっていた[5][14][21]が、同年3月21日に日比谷公会堂で行われたシューベルトの歌曲集「美しき水車小屋の娘」全20曲のリサイタルを開催した[5][14][21][注 6]ほか、4月にはNHKからの依頼を受けて計3回の録音を行った[注 7]

NHKにおける3回目の録音から9日後の4月25日、大東学園病院から東京帝国大学(現:東京大学)付属病院へ転院した[22]。手術の可能性を探りたいという医師側の意向によって転院が決まったもので、レントゲン検査を受けていたが5月22日に容態が急変して危篤状態に陥り、その4日後の5月26日午前5時20分に息を引き取った。62歳没。なお、死の2日前(5月24日)には昏睡状態の中、ドビュッシーの「バルコン(露台)」(歌曲集「シャルル・ボードレールの5つの詩」から第1曲)を口遊んでいたという[5][21][22]

環の死去を受けて、5月28日に最初の入院先だった大東学園病院の母体である大東学園の講堂で告別式が行われたのち、6月7日には日比谷公会堂にて音楽葬が盛大に営まれ、かつて世界三大「蝶々夫人」歌手の一人であるジェラルディン・ファーラーや、共演者の一人であるテノール歌手のジョヴァンニ・マルティネッリから追悼メッセージが寄せられた[5][21]。環の亡骸は、生前に残した「富士山の見える湖畔で母と共に眠りたい」という遺言に基づき[19]前年に亡くなった母・登波と共に山中湖東岸に近い平野部に所在する寿徳寺に葬られている。その裏手に建立された墓碑には「うたひめはつよき愛国心持たざれば 真の芸術家とはなり得まじ」と実筆の詩が刻まれている[23][24]

人物・エピソード

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長崎県長崎市グラバー園にある「蝶々夫人」環の像[25]
(2010年9月3日撮影)

大正時代に欧米各地で上演されたように「蝶々夫人」が環の代表作、かつ「蝶々さん」が当たり役で、その正統的・模範的な演技は国内外で現在でも高く評価されている。幼少期に日舞を学んでいたこともあり、美しく自然な所作によって成功を掴むことが出来たと言われている。その名声ゆえに、エンリコ・カルーソーヤン・パデレフスキといった著名な芸術家とも共演している。環が「蝶々さん」に扮した姿の銅像は、ジャコモ・プッチーニの銅像と共に長崎県長崎市グラバー園に建っている。

トッレ・デル・ラーゴのプッチーニ博物館(晩年の家)の歌手の写真を集めた一角には、日本語で「親愛なるジヤコモ・プチニ先生へ」と書かれたサイン付きの環の写真が展示されているほか、ローマ歌劇場にも歴代のプリマドンナと並んで環の写真が展示されている。

著名な門弟に原信子長坂好子柳兼子・鈴木乃婦・関屋敏子小林千代子由利あけみ山口淑子がいる。イギリスではヘンリー・ウッドアデリーナ・パッティ濱田耕作穂積重遠野上俊夫曾我廼家五郎の妻・雪、井上勝之助夫妻らと交流があった[26]ほか、アメリカではエルネスティーネ・シューマン=ハインクカール・ムックニュートン・ディール・ベイカー一家、エンリコ・カルーソーらと交流を持ち、15年間の滞米中にウッドロウ・ウィルソンウォレン・ハーディングカルビン・クーリッジと三代の大統領の前で歌う機会に恵まれた[26]

環の元夫と噂された新聞記者の千葉秀甫(秀浦)は、環の帝国劇場出演に関して環が世話になった人物で、環に結婚を迫ってシンガポールやドイツまで環を追いかけたとされる[26]。千葉は語学が得意で翻訳書などの著書があるほか[27]、渡欧後はスライドを見せながら日本の文化を紹介する講演会で各地を回り、1914年(大正3年)に勃発した第一次世界大戦でスイスに逃れた後、落ちぶれてローザンヌで亡くなったという[28]ウィーンで客死とも言われる[29])。また、千葉は「座光寺秀次郎(天卿)」の名で書生芝居の役者だったこともあり、明治の女性落語家である若柳燕嬢の元夫でもあった[30][31]

著書

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  • 『世界のオペラ』共益商社、1912年5月。 NCID BA31820818全国書誌番号:40073049 
  • 『わが芸術の道』世界創造社〈スメラ民文庫〉、1942年10月。全国書誌番号:44062767 
  • 吉本明光 編『お蝶夫人』右文社、1947年5月。 NCID BN07090197全国書誌番号:46023434 

翻訳

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関連書籍

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フィクションにおける三浦環

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小説
  • 瀬戸内晴美『お蝶夫人 小説三浦環』講談社 1969 のち文庫
映画
舞台
テレビドラマ
ラジオドラマ

脚注

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注釈
  1. ^ 出生地を東京市芝区(現:東京都港区芝)としているサイトも存在する[3]。ただし、少なくとも東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)入学以降は東京市芝区に在住していた[4]
  2. ^ 「ピアノを瀧廉太郎に、声楽をユンケルに習う」と記述しているものも存在する[1]
  3. ^ この公演は東京帝国大学東京美術学校(現:東京芸術大学美術学部)、東京音楽学校の学生や卒業生によって開催されたもので、演目はクリストフ・ヴィリバルト・グルック作曲の「オルフェオとエウリディーチェ」で、三浦は主役にあたるエウリディーチェ役を演じた。当時は本格的なオーケストラが存在しなかったため、ピアノ伴奏によって開催されたとされている[5][8]
  4. ^ 1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災の復興活動を通じて集まった婦人団体からなる「東京連合婦人会」が公演を主催した。環が務めたタイトル・ロール(蝶々夫人)以外の主要キャストとしては海軍士官ピンカートン役に永田絃次郎と渡邊光のダブルキャスト、アメリカ領事シャープレス役には下八川圭祐が起用された。この他、演出は伊庭孝が担当し、管弦楽は篠原正雄が指揮する中央交響楽団が担当した[16]
  5. ^ 前述の“2001回目”の公演から約7ヶ月後の1937年(昭和12年)1月28・29日に大阪市中央公会堂にて開催された環主演による「蝶々夫人」は関西地方での初公演となり、環による日本語訳の歌詞が使用された。この公演は東京音楽学校(現:東京芸術大学音楽学部)の卒業生で組織された「同声会」大阪支部の主催で開催されたもので、支部長を務めていた永井幸次大阪音楽学校の創立者としても知られている[18]
  6. ^ 開催にあたっては、当時入院していた大東学園病院の医師が付き添い、注射を打つなど常時待機していた。また、舞台上へは振袖を着用し、マネージャーや弟子の手を借りながら登場していた[14][21]
  7. ^ 最初の録音は4月5日に行われ、シューベルトの歌曲集「冬の旅」全曲を収録した。2回目は4月9日で自身の十八番である“蝶々夫人”から「ある晴れた日に」「ハミングコーラス」「操に死ぬるは」と義太夫節「三十三間堂棟由来」(浄瑠璃「祇園女御九重錦」三段目)から「木遣歌」を収録した。同時にジャコモ・プッチーニとの思い出も収録した。3回目は4月16日に行われ、「庭の千草」「ケンタッキー・ホーム」「ホーム・スイート・ホーム」などのポピュラー曲を管弦楽伴奏付きで収録している。これら計3回の録音のうち、2回目の録音では当時のNHK第1スタジオが使用され、管弦楽(クラウス・プリングスハイム指揮)が準備された一方、舞台裏には簡易便器も用意されていたという[22]
出典
  1. ^ a b c d 世界のプリマドンナ三浦環とは/プロフィール”. マダム・バタフライとは. マダム・バタフライ インターナショナル財団. 2016年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月21日閲覧。《》
  2. ^ a b c d e コンクールについて”. 静岡国際オペラコンクール. 2016年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月21日閲覧。《》
  3. ^ 酒井義夫(いずみ書房創業者) (2014年5月26日). “『蝶々夫人』の三浦環〜今日はこんな日”. 児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ. いずみ書房. 2016年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月21日閲覧。
  4. ^ a b 江本弘志『日本人歌手ここに在り!:海外に雄飛した歌い手の先人たち』文芸社、2005年、10頁。ISBN 483558922X 
  5. ^ a b c d e f g h i 人間の記録27 三浦環”. 一般・図書館向け〜文芸・読みもの. 日本図書センター (1997年6月). 2016年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月21日閲覧。《》
  6. ^ 東京芝今入町より上野まで自転車通学をしていた。このコースについては、瀬戸内寂聴が一ツ橋、神田、本郷から切通しを過ぎて池之端に出たとする説に対し、「本の話」では神田橋を渡るまでは同じだが、直進し靖国通りを横断して淡路町を抜けて昌平橋を渡り明神通りを経て中央通りを直進した方が時間と坂道が少ないと異論を出している。出典は『自転車の文化史:市民権のない5,500万台』、佐野裕二、文一総合出版、1985.1、P170-171
  7. ^ 「蝶々夫人」を1910-30年代に欧米で歌ったソプラノ歌手・三浦環の数奇な音楽人生坪井賢一、ダイヤモンド社、ダイヤモンドオンライン、2014.8.22
  8. ^ a b c 網倉俊旨date=2010-03-11. “歩いてみよう、上野界隈・第二回「旧東京音楽学校奏楽堂」”. 春祭ジャーナル~東京・春・音楽祭. 東京・春・音楽祭実行委員会. 2016年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月21日閲覧。《》
  9. ^ 坪井賢一(ダイヤモンド社論説委員) (2014年8月22日). “「蝶々夫人」を1910-30年代に欧米で歌ったソプラノ歌手・三浦環の数奇な音楽人生(全6頁中2頁目)”. ダイヤモンド・オンライン. ダイヤモンド社. 2016年2月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月21日閲覧。 “かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史【第58回】”《》
  10. ^ 山田耕筰『自伝 若き日の狂詩曲』中公文庫中央公論新社)、1996年6月。ISBN 4122026245。「改版あり(初回刊行「2016年1月21日」・ISBN「4122062187」)」 
  11. ^ 『ロームミュージックファンデーションSPレコード復刻CD集』「日本SP名盤復刻選集Ⅰ」(解説書). ロームミュージックファンデーション. (2004年) 
  12. ^ 下川耿史 家庭総合研究会 編『明治・大正家庭史年表:1868-1925』河出書房新社、2000年、403頁。ISBN 4-309-22361-3 
  13. ^ 読売新聞』1922年8月3日(倉田喜弘『日本レコード文化史』東京書籍(東書選書 124)、1992年、113頁。ISBN 4-487-72224-1)。
  14. ^ a b c d e f g 坪井賢一(ダイヤモンド社論説委員) (2014年10月3日). “日本人初の世界的なオペラ歌手として活動した三浦環20年間の最盛期をたどってみた(全6頁中4頁目)”. ダイヤモンド・オンライン. ダイヤモンド社. 2016年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月21日閲覧。 “かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史【第61回】”《》
  15. ^ 三浦環 みうら たまき”. コトバンク. 朝日新聞社. 2016年3月13日閲覧。
  16. ^ 三浦環主演 グランドオペラ《蝶々夫人》”. 昭和音楽大学オペラ研究所オペラ情報センター. 昭和音楽大学. 2016年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月12日閲覧。《》
  17. ^ 日本人初の世界的ソプラノ、三浦環誕生(1884~1946)”. おんがく日めくり. ヤマハ. 2007年11月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月12日閲覧。《》
  18. ^ 大阪音楽大学創立100周年誌編集室. “関西音楽史のなかの大阪音楽大学(大阪音楽大学の歴史)”. 学校法人大阪音楽大学100周年記念事業. 大阪音楽大学. 2016年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月12日閲覧。 “ページ表示後、中程に掲載されている年表上部に並ぶタブのうち「1931年-1945年」タブをクリック”《》
  19. ^ a b 三浦 環”. 山中湖村ホームページ(旧). 山中湖村. 2008年5月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月12日閲覧。
  20. ^ 工藤正義(三島由紀夫文学館). “人物「三島由紀夫・三浦環・徳富蘇峰と山中湖」”. 山中湖村エコツーリズム. 山中湖村エコツーリズム推進協議会. 2016年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月12日閲覧。《》
  21. ^ a b c d e 『三浦環のプロフィール』:新字新仮名 - 青空文庫《→アーカイブ〔カード(表紙)作品本文〕》
  22. ^ a b c 坪井賢一(ダイヤモンド社論説委員) (2014年10月3日). “日本人初の世界的なオペラ歌手として活動した三浦環20年間の最盛期をたどってみた(全6頁中5頁目)”. ダイヤモンド・オンライン. ダイヤモンド社. 2016年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月12日閲覧。 “かの残響、清冽なり――本田美奈子.と日本のポピュラー音楽史【第61回】”
  23. ^ 寿徳寺・三浦環墓碑”. 山中湖観光協会. 2016年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月12日閲覧。
  24. ^ 寿徳寺”. 山中湖村観光課公式サイト. 山中湖村. 2016年3月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月12日閲覧。
  25. ^ 4.三浦環像?旧自由亭(「ナガジン」発見!長崎の歩き方) - 長崎市役所
  26. ^ a b c お蝶夫人、三浦環、右文社、1947(昭和22)年5月10日
  27. ^ 千葉秀浦著作集国立国会図書館デジタルコレクション
  28. ^ 三浦環の怪寫眞『実話ビルディング : 猟奇近代相』武内真澄 著 (宗孝社, 1933)
  29. ^ 孔雀女『茶話 大正六(一九一七)年』薄田泣菫、大阪毎日新聞
  30. ^ 吉田昌志「泉鏡花「年譜」補訂(9)」『学苑』第855号、光葉会、2012年1月、45-58頁、ISSN 1348-0103NAID 110008729486 
  31. ^ 若柳 燕嬢(読み)ワカヤギ エンジョウコトパンク
  32. ^ 柴咲コウ「エール」で朝ドラ初出演「うれしい」も世界的オペラ歌手役に苦戦「壁に…」基礎から声楽練習 スポニチAnnex 2020年2月3日閲覧

参考書籍

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  • New Grove Dictionary of Opera Vol.3, NY: Macmillan 1972.
  • Michael Scott, The Record of Singing, Vol.2 1914-1925, London: Duckworth 1979.

関連項目

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外部リンク

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