ノート:落合信彦

最新のコメント:15 年前 | 投稿者:黄金もち

百科事典という性質から、不必要な皮肉や強調は削除させていただきました。 また、一部幼稚な表現を修正させていただきました。  2007年4月21日 (土) 09:20 (UTC)--以上の署名の無いコメントは、徳田龍之介会話投稿記録)さんが 2007年4月21日 (土) 00:20‎(UTC) に投稿したものです(Type20会話)による付記)。

ブルース・リー云々は小説ではなく「読み手の側が小説とルポを混同した結果」ではないと思います。--黄金もち 2009年11月2日 (月) 20:59 (UTC)返信

書かれている内容は興味深いと思うのですが、この記事は落合作品に対する個人的な(優れた)批評、評論になっていると思います。「Aは出典××で落合作品を「・・・・」と批評している」のような形式なら何の問題も無いのです。何とかならないものか・・。--黄金もち 2009年11月3日 (火) 21:38 (UTC)返信

落合氏の著作を出典として記述するなら良いのですが、表現には充分注意すべきかと思います。一応、戻させて頂きました。--黄金もち 2009年11月8日 (日) 04:38 (UTC)返信

落合信彦の人物像を紹介するのに、自分の経歴をフィクション化した作家であるという側面ははずせません。伝説という言葉は現実との距離があることを示しながらも名誉を汚すものでない最適な表現だと思われます。全て、落合の著作の中にある事件・事実なので、少しずつ出典をつけていけばいいだけのことだと思われますが、どうして全削除するのか理解できません。なお、名誉博士号か、否かは、本人の名誉のためにも明確化しておく必要があるので大人げないかもしれませんが直させていただきました。オルブライト大学は文系学士課程が中心の小大学で、一部専科の修士号までしか出していないため、博士号を与えることがありません。もし、博士号を出す場合は、たとえばペンシルベニア大学との共同プロジェクトとしてなど、特別の扱いになります。一昨日、当大学に電話をして一応確認をとりましたが、HumanitiesでいうドクターとはPHDのことではなく、そもそも名誉学位だけのためにある仮名だとのことです。博士課程とも博士号とも全く異なる肩書きであり、しかも、有料です。--Telshkt 2009年11月8日 (日) 10:43 (UTC)返信

丁寧なコメント有難うございました。

>自分の経歴をフィクション化した作家であるという側面ははずせません。

  • 落合氏を「自分の経歴をフィクション化した作家である」とするのは、ご自身の見解であり、「独自研究」では。

>最適な表現だと思われます。

  • 主観的な判断では?(私は他人の著書にある経歴を「伝説」と表現することは名誉毀損になりうると考えます。)。ところで、なぜ「現実との距離がある」と思われるのでしょうか。

>どうして全削除するのか

  • 出典(著作)を付した正確な引用をお願いいたします(「行為者がその事実を真実であると誤信し、誤信したことについて、確実な資料、根拠に照らし相当の理由があるときは、犯罪の故意がなく、名誉毀損の罪は成立しないものと解するのが相当(夕刊和歌山時事事件、最大判)」)。

>名誉博士号か、否か

虚しいな--黄金もち 2009年11月9日 (月) 07:40 (UTC)返信

落合本人が「ドナルド・トランプから電話があって株についてのアドバイスをした」と言っているわけですが、それを実際には無かったこととして完全に否定する方法はありません。トランプ氏が「落合誰?そんなの知らない」といおうが、トランプ氏の使用する電話会社の通話記録に落合が出てこなかろうが、落合本人が「電話があったのだ」と言い張る限り、その事実を完全に否定することはできない。カマヤツヒロシがたとえば「僕はビートルズのメンバーだった。東洋人だから名前をのせてもらえなかっただけで本当はレコーディングのときにギターをひいていた」といったときも同じで、それをビートルズのメンバーからの証言、外務省の持つ出入国記録、もしくはカマヤツの事務所の証言で完全に否定しきる方法はないんです。じゃあ本人が言い張るんだから、それを真実とするのか。無論そんなバカなことはない、そのためにあるのが常識なんですよ。そしてどこまでを常識として、どこまでを検討する余地のある仮説かを判断する機能の一部が辞書の役割です。私が伝説としてあげた事項は、絶対にありえないジョークの類なので、逆にこんなのを落合に本当に起こった逸話だとするようがよっぽど落合を追い詰め、信用を失墜させる行為なんです。法螺吹きだとか嘘つきだとか非難されやすい落合を救うため私はあえて「伝説」という表現を使い、スーパーありえねーストーリーを擬似フィクションの仕業だとポジティブに解釈したのです。嘘ではなく、伝説なのだ、ホラではなく、想像なのだ、とね。出典は今すぐわかるものと、そうでないものがあるので、少し時間のかかる作業になります。中には落合の講演からきた話もあるし、テレビで一度流れただけのソースの話もあります。正直、落合のスーパーありえねーストーリーはまだまだ山のようにあって、いくらでも項目は増えてきます。どれもこれも、「ヌンチャクでヒグマを倒した」並の非常識なネタなので、これはこれで一つの「大道芸人」としての人格、キャリアだとでも紹介するしかないんですよ、ほんと。落合マニアはみんな知ってます。もし後で納得したら、一番最後の執筆部分は戻してください。出典は徐々につけていくので。

名誉博士号のことですが、日本のたとえば国立大学が名誉人文学博士号を出すのなら話は別ですよね。明治以来、文学博士ってのは鉄道博士と違って日本や中国には本当にある学位だから、それの名誉バージョンがあるのも納得。アメリカにはもともと人文学博士という肩書きの学位はないし、落合の出たオルブライト大学には博士号自体を授与する権限がないので、落合が名誉人文学博士なんてことはありえないんです。このニュースが流れたときに、落合が修士号を(テンプル大学にて)終了していないことにケチをつけた人もいましたが、修士号を飛び越して博士号を取ることはアメリカでは頻繁にあります。


--Telshkt 2009年11月10日 (火) 05:36 (UTC)返信

>出典は今すぐわかるものと、そうでないものがあるので、少し時間のかかる作業になります。中には落合の講演からきた話もあるし、テレビで一度流れただけのソースの話もあります。

「路上のスパーリングでブルースからKO勝ちを奪った」のソースは何でしょう。落合さんはどこでそのような発言をなさったのでしょうか。落合さんのインタビュー(PB)ではお兄さんとリーのエピソードのみで、テリーとの対談では「路上のスパーリング」と「KO勝ち」は登場しないと思うのですが。--黄金もち 2009年11月11日 (水) 03:25 (UTC)返信

出典はいろいろですよ。芥川龍之介なら全部著作か書簡でしょうが、落合はテレビにも出れば講演もすればネットもやるタレントです。出典が後になってはっきりすることもありますし、そのための機能がウィキには設定してあるんです。編集者が個人的な落合への反感でもってミスリードしたり嘘の情報を流したりしていないか、それをチェックすることも無論必要ですが、ある程度は書き手のスタンスや発言スタイルから信用してペンディングで続けないと先に進まないのも事実。ブルースからのKO勝ちはネタです。真実でなく、ネタ。ネタってわかるよね。常識で考えよう。テリーは落合の著作の中でブルースと組み手をやり屋外で決着のつく話があることを知って対談で持ち出したのだと思います。私は落合の大ファンですが、ジャーナリストとしてでなく、エンターテイナーとしての落合信彦を一つの項目で紹介したいと思って書きました。そういう考え方を受け入れることが難しいと感じる人もいるのはわかります。ロバート・ケネディの護衛をして倒れたところを起こしたなんてネタ、普通の日本人の感覚じゃ、笑っていいのか驚いていいのか、たぶんわからないと思うから。また日本の常識が欧米並みに成熟してこういうジョークを理解するところまできたら、違った本文ができるかもしれませんね。--Telshkt 2009年11月11日 (水) 09:58 (UTC)返信

Wikipedia:検証可能性に次の方針が示されています。

  • 1 記事には、信頼できる情報源が公表・出版している内容だけを書くべきです。
  • 2 記事に新しい内容を加筆するときは、信頼できる情報源―出典(参考文献)―を明らかにすべきです。出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(出典のない記述は除去されても文句は言えません)。
  • 3 出典を示す義務を負うのは、書き加えようとする側であり、除去を求める側ではありません。

>テリーは落合の著作の中でブルースと組み手をやり屋外で決着のつく話があることを知って対談で持ち出したのだと思います。

あなたはその著作をお読みになったのですか?--黄金もち 2009年11月11日 (水) 12:50 (UTC)返信


ルールというのは確かにある。ウィキはもともと海外ではじまったネット辞書の日本版だし、一利用者が勝手に規範を乱すことをそのつど正当化していくのは無理があるだろう。しかし、ルールというのはもともと自我のぶつかりあう混乱状態より人間を守るためにあるものであり、活動をしばるためではない。一時的にルールをかいくぐることで、創造的で建設的な結果にたどりつくのなら、その結果という未来の出来事をもってルールを改竄することだって当然あっていいはずだ。そのための試みを全てその場で禁じて可能性を摘み取ってしまうことが果たして生産的で知的なことだといえるだろうか?たしかにルールを守ることが悪いとはいえないが、ルールというバカやオケラを含めた万人共通の底にある次元でお互いをしばりあうより、ルールを操作する行為を競って討議しあうことのほうが、場を高次へと導くものだと私は信じます。人間が社会参加するということは決して誰かのいいなりになることではなく、他者の言い分、社会の惰性、慣性との戦いであり、その中でどれだけ自分の個性や信義を磨き発揮するかということに他なりません。私は決められた枠を埋めることでなく、真理を求める戦いを持って自分の持つ落合像を完成させるつもりです。--Telshkt 2009年11月11日 (水) 23:14 (UTC)返信

ルール絶対を押し付ける気は毛頭無いのですが、過去の編集履歴に見ることができるように、(どなたかが書いた記事を)誰かにバッサリ削られてしまうことがままあるようです(例えば[1]、それなりに理由はあり、この方の編集には概ね賛成ではありますが)。出典を付けておけば、記事を残すことができると思うのです。いずれにしても、落合さんに対する愛が大切ということです。ご健筆をお祈りいたします--黄金もち 2009年11月12日 (木) 07:45 (UTC)返信

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