テリー・レイ
テレンス・リチャード・レイ(Terrence Richard Ley , 1947年2月21日 - )は、アメリカ合衆国オレゴン州出身の元プロ野球選手(投手)。1974年~1975年に日本ハムファイターズに所属した。
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | オレゴン州 |
生年月日 | 1947年2月21日(77歳) |
身長 体重 |
5' 11" =約180.3 cm 190 lb =約86.2 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1967年 MLB2次ドラフト3巡目 |
初出場 |
MLB / 1971年8月20日 NPB / 1974年7月17日 |
最終出場 |
MLB / 1971年9月25日 NPB / 1975年6月1日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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来歴・人物
編集1967年の二次ドラフト3巡目でニューヨーク・ヤンキースに入団。メジャーでの出場は1971年のみ。
1974年のシーズン後期[1]、この年から業務提携していた日本ハムファイターズからの要請を受け、補強要員として入団する。同時に獲得した選手がマイク・ケキッチである。
入団時の背番号は3だが、これは開幕前時点でつけていた大杉勝男が前年不調で「原点に帰る」との理由でプロ入り時の51に戻し結果空き番号となったためやむなくつけた結果である。ケキッチと共に即戦力投手として期待されたが1試合+1イニング3ボーク(当時の日本ワースト記録)を犯すなど力を発揮しきれず、たちまち「だめ外人」のレッテルを貼られる。しかしこの年は13試合に登板して3勝2敗、防御率3.35と悪くはなかったため「貴重な外国人投手」として残留し翌1975年もプレー。長身から高め速球、スライダー、チェンジアップ、低めへカーブというコンビネーションを武器とする。投手らしい背番号(17)をもらうが、11試合に登板して2勝3敗、防御率4.75と成績が下降し前期限りで解雇された。南海・野村克也はこのレイから通算600号本塁打を放ち、試合後に「俺は月見草」とコメントした。なお帰国後、アメリカ球界に復帰したという情報はない。
詳細情報
編集年度別投手成績
編集年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1971 | NYY | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 49 | 9.0 | 9 | 1 | 9 | 2 | 2 | 7 | 0 | 0 | 9 | 5 | 5.00 | 2.00 |
1974 | 日本ハム | 13 | 4 | 2 | 0 | 0 | 3 | 2 | 0 | -- | .600 | 180 | 43.1 | 23 | 3 | 32 | 1 | 2 | 28 | 2 | 3 | 17 | 16 | 3.35 | 1.27 |
1975 | 11 | 11 | 0 | 0 | 0 | 2 | 3 | 0 | -- | .400 | 252 | 55.1 | 46 | 9 | 48 | 0 | 2 | 30 | 1 | 2 | 30 | 29 | 4.75 | 1.70 | |
MLB:1年 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 49 | 9.0 | 9 | 1 | 9 | 2 | 2 | 7 | 0 | 0 | 9 | 5 | 5.00 | 2.00 | |
NPB:2年 | 24 | 15 | 2 | 0 | 0 | 5 | 5 | 0 | -- | .500 | 432 | 98.2 | 69 | 12 | 80 | 1 | 4 | 58 | 3 | 5 | 47 | 45 | 4.09 | 1.51 |
記録
編集- NPB
- 初登板・初先発:1974年7月17日、対近鉄バファローズ後期1回戦(日生球場)、1回2/3を4失点で敗戦投手
- 初奪三振:同上、1回裏にクラレンス・ジョーンズから
- 初勝利・初先発勝利:1974年9月16日、対太平洋クラブライオンズ後期9回戦(平和台野球場)、7回1/3を1失点
- 初完投勝利:1974年9月20日、対近鉄バファローズ後期12回戦(日生球場)、9回2失点
- 1イニング3ボーク:1974年7月17日、対近鉄バファローズ後期1回戦(日生球場)、1回裏に記録 ※史上初
背番号
編集- 43 (1971年)
- 3 (1974年)
- 17 (1975年)
関連項目
編集外部リンク
編集脚注
編集- ^ パシフィック・リーグは1973年から1982年まで前期後期制を採用していた。