アララギ

日本の短歌結社が刊行する雑誌

アララギ』(あららぎ)は、日本短歌結社1903年明治36年)に伊藤左千夫をはじめとした正岡子規門下の歌人らが集まった根岸短歌会機関誌馬酔木』を源流とし、1908年(明治41年)に左千夫や蕨真一郎を中心に『阿羅々木』として創刊。翌年、島木赤彦が創刊した『比牟呂』と合併し、『アララギ』と改題された[1][2]

歴史

編集

編集体制は当初左千夫を中心とし、古泉千樫斎藤茂吉石原純らが交替で編集にあたった。しかし編集主任であった千樫の編集体制のもとでは遅刊休刊が続き、左千夫が死去する直前の1913年(大正2年)には茂吉らとの内部分裂が深刻となり、休刊・廃刊も視野に入るほどの危機に陥った。茂吉は赤彦に窮状を訴え、業を煮やした赤彦が長野県から上京。編集発行人を一時的に千樫から茂吉に交代した。1914年(大正3年)6月より赤彦らと親交の深い岩波茂雄が経営する岩波書店にて販売取扱いを始めた。1915年(大正4年)2月に赤彦が編集発行人となり、3月1日より岩波書店が正式に発売所となる[3]。赤彦は会計整理を決行し、会員であった画家・平福百穂の絵画頒布会の開催や会員増強策などを講じた。また茂吉の第一歌集『赤光』は、新傾向短歌の代表格として一躍『アララギ』の名を高め、発行部数の増加と歌壇の制覇に大きな貢献を果たした。赤彦門下の土田耕平鹿児島寿蔵らにより堅実な写生主義が引き継がれたが作風は狭隘な形式化が進み、千樫や純、釈迢空らは『アララギ』を脱退して1924年(大正13年)に北原白秋前田夕暮らとともに『日光』[4]を創刊した。

1926年(大正15年)より茂吉が、1930年(昭和5年)より土屋文明が編集発行人となった。戦後は茂吉門下の佐藤佐太郎による『歩道』[5]、文明門下の近藤芳美岡井隆らによる『未来[6]、文明門下の高安国世による『[7]など、有力会員による分離独立が相次ぎ、その過程で『アララギ』[8]本誌は相対的に影響力を落としていった。1993年(平成5年)、小市巳世司が編集発行人に就任。1997年(平成9年)12月終刊。これを不満とした同人たちの手により短歌誌が創刊された。宮地伸一、吉村睦人雁部貞夫らによる『新アララギ』[9]、大河原惇行による『短歌21世紀[10]、小市巳世司による『青南』、常磐井猷麿による『アララギ派』[11]の四派に分かれ、それぞれ後継結社を名乗った[12]

アララギ派・アララギ系

編集

子規の短歌論を信奉し『アララギ』に拠った歌人たちをアララギ派と称する。写実的、生活密着的歌風を特徴とし、近代的な人間の深層心理に迫り、知性的で分析的な解釈をしている。アララギの系譜を引く結社全てを合わせると現在に到るまで歌壇の最大勢力である。1997年の『アララギ』の分裂に伴って『アララギ派』という結社誌が新たに創刊されたため、以降は、両者を区別するためアララギ系と言い換えるようになった。広義の意味でアララギ系に分類される結社には『新アララギ』、『短歌21世紀』、『未来』、『』、『歩道』[13]などの全国結社のほか、『柊』、『林泉』、『群山』、『関西アララギ』等をはじめ多くの地方結社がある。

その他

編集
  • 昭和10年代には、ヨーロッパの美術作品を毎号の表紙に使用していた。いずれも斎藤茂吉が留学中に収集したもので、茂吉自身による解説が付されていた。ヨーロッパ美術の日本への紹介という役割は大正期の「白樺」が有名であるが、昭和10年代においてはアララギが大きな役割を果たしていた。

主な歌人

編集

出典・脚注

編集

関連項目

編集

外部リンク

編集