お富の方
徳川家治時代の大奥女中。徳川治済の側室。父は岩本正利(幕臣)
お富の方(おとみのかた)は、江戸幕府10代将軍・徳川家治時代の大奥女中で、御三卿・一橋徳川家当主・徳川治済の側室。11代将軍・徳川家斉の生母である[1][2]。「幕府祚胤伝」では、名を於登美としている[3]。
お富の方 / 於登美 / 慈徳院 | |
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生誕 | 不明 |
死没 | 文化14年5月8日(1817年6月22日) |
墓地 | 東叡山寛永寺・凌雲院 |
別名 |
於登美 法名:慈徳院殿、慈徳院種善教成大姉 |
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
配偶者 | 徳川治済 |
子供 | 徳川家斉、黒田斉隆?、雄之助、斉敦 |
親 | 父:岩本正利 |
生涯
編集父は岩本正利[3]。母は大奥の御年寄・梅田の養女。岩本家は、元は紀州藩の紀州徳川家に仕え、徳川吉宗の将軍家継承時に随従した紀州系幕臣の家であった。
明和元年(1764年)、本丸の奥勤めとなる[3]。安永元年(1772年)3月、徳川治済の望みにより、一橋邸に移り中﨟となる[3]。
安永2年(1773年)10月5日、豊千代(家斉)を出産した[3][4]。
豊千代は天明元年(1781年)閏5月18日、10代将軍・家治の養子となる[4][2]。この養子縁組は、治済が、於富と関係が深い田沼意次や大奥年寄・大崎などに豊千代の将軍家継嗣擁立を頼み込んだ結果、大奥の支持で決定したという。同年10月頃、豊千代とその婚約者・茂姫は江戸城西ノ丸に入った。
天明6年(1786年)に家治が薨去すると、翌年に家斉が11代将軍となり、茂姫は御台所として西の丸から本丸に移り住んだ。於富は将軍生母となったが、主である治済が於富よりも長命であった為、茂姫と共に本丸大奥へ入ることはなく、一橋邸にて治済の側で過ごした[5]。
文化14年(1817年)5月8日、死去した[6][1]。東叡山寛永寺・凌雲院に葬られた[6][1]。法号は慈徳院種善教成大姉[6](慈徳院殿[1])。
死後
編集子女
編集(出典:「一橋徳川家記」[7])
脚注
編集- ^ a b c d 続群書類従完成会 1970, p. 77.
- ^ a b 続群書類従完成会 1970, p. 70.
- ^ a b c d e 続群書類従完成会 1974, p. 141.
- ^ a b 続群書類従完成会 1974, p. 135.
- ^ 畑尚子「知らなかった!?大奥の秘密」(PHP研究所、2009年)P104
- ^ a b c d 続群書類従完成会 1974, p. 142.
- ^ 続群書類従完成会 1979, pp. 23–24.
- ^ 続群書類従完成会 1965, p. 214.
参考文献
編集外部リンク
編集
徳川家斉の系譜 |
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