いて座
すべてこれ夢一場
夢でつながる共同体
今週のいて座は、「夢の民主化」が起きた中世日本社会のごとし。あるいは、合理的な判断以外のところからの情報をみずからの判断に盛り込んでいこうとするような星回り。
地震大国に暮らしてきた日本人は長らく自然と近いところで生きてきた民族であり、そうした類例と見なせるような事象は歴史的にも見出すことができます。
例えば、精神科医の新宮一成は『メディアと無意識―「夢語りの場」の探求―』のなかで、災害や疫病、飢饉などが多発していた中世日本社会においては、貴人と一般庶民の区別なく、自分の見た夢を他者と共有したり、言及しあう情報空間が構築されていたのだと述べています。
古代の「夢見る王」とちがって、中世ではこのような大切な夢のメッセージを受信したのが西京の住人と伝えられているだけで、いったいどこの誰なのかわからないことが多い。とりたてて特別な存在というわけではない、まったくただの人がこのように重要な情報を受信する主体となっている。
中世では誰もが夢を見ることができた。それも、疫神や賀茂大明神のような絶大な力をもつものからのメッセージが、ただの西京の住人や仁和寺あたりの女の夢として受信される。夢を見ることが特権的な王によって独占されていた古代からみれば、「夢の民主化」とでもいえそうな現象が、中世では起きている。
12月9日にいて座から数えて「大きな夢」を意味する4番目のうお座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、自然と現代における「夢の民主化」の一端を担うような受信を自分でも気付かないところで行っているかも知れません。
「二人で頑張ろう、同僚」
日本は世界一の長寿国であると同時に、世界一少子化が進んでいる国でもあり、多和田葉子の小説『献灯使』は、そんな日本社会の特質を縫い合わせたような作品となっています。
東京に住む108歳の老人作家の義郎が、身体が不自由でつねに微熱を発しているひ孫の無名(むめい)を育てるという特異な設定の物語の中で、通常は元気なはずの子どもが病気がちの横臥者で、人に世話されがちな老人が介護者という構図の反転が起きているのです。
そのためもあってか、義郎は無名を無意識に見下す訳でも、過剰に保護的になりすぎる訳でもなく、事あるごとに迷いつつも絶妙なバランスでケア的であろうとしていくのですが、それを象徴しているのが義郎が無名を育てる覚悟を決めたシーンです。無名が産まれた時、孫はどこかへ旅行へ行ったまま行方不明で、母親も出血多量で死んでしまい、義郎は途方にくれていました。
義郎は、ミニチュアのような赤ん坊の手を握って小さく動かし、大声で泣き笑いしたい気持ちが爆発し、口から思わず飛び出してきたのが、「二人で頑張ろう、同僚」だった。これまで使ったことのない「同僚」などという言葉がなぜこの瞬間出てきたのだろう。
思わず「同僚」と呼びかける義郎と無名のあいだには、家父長的な父と子という序列関係はもはや存在していません。その後、無名の父親である孫の飛藻が戻ってきた際、義郎は「自分の子がかわいくないのかと」と詰問するのですが、「俺の子かどうか、どうしてわかる」というつれない返事をした孫を責めた後、「思わず陳腐な台詞を吐いてしまった」と自分の創造性のなさを反省し、改めて「同僚」との関係性に立ち戻っていったのです。
こうした義郎の口から「同僚」という言葉がついて出たのも、先の「夢の受信」の一例と言えるかもしれません。
今週のいて座もまた、常識的な正論や理性的な推論からだけではなく、ふとした思いつきや夢に見たことを積極的に取り入れてみるといいでしょう。
いて座の今週のキーワード
まったく特別でない「ただの人」であること