copyrightが「版権」から「著作権」に変わったとき

今回は日本における著作権法史のお話です。


copyrightに「版権」という訳をあてたのは、福沢諭吉です。
でもそれ以前にも似た概念はありました。江戸時代は「潤筆」と呼ばれてたようです。潤筆…とっても風雅な語感ですね。滝沢曲馬琴がもらったという記録が残っています。でも、それはベストセラー作家に対する任意の原稿料で、たいていは、まあ遊郭で出版業者から一日もてなされてどんちゃん騒ぎするくらいのものだったようです。
ちなみにこの頃の法制度は、出版業者の組合規定や奉行所の命令により、無断複製出版が禁じられていましたが、きっちりとした法律にはなっていませんでした。成立過程はイギリスと同様、出版社保護に力点が置かれていたということが興味深いですね。


さて明治に入り、出版条例が制定されます(明治2年)。これは図書の出版専売の免許制度でした。主として出版に関する取締法規というべきもので、これが明治8年に改正されたときに「版権」という語が出てきます。書籍の出版に関する権利を「版権」として規定したのです*1。版権の侵害に対しては刑事罰を課していました。


明治32年、不平等条約撤廃に向けて(旧)著作権法が成立します。「著作権」という語は水野錬太郎が作った言葉です。成立過程は『著作権を確立した人々』に詳しく書いてあります。

この本です。実はまだ読んでないんですけど…*2。
さて、旧著作権法はベルヌ条約加入が目的でした。加盟することは、不平等条約撤廃のための条件のひとつだったそうです。ただ、ベルヌ条約加盟が先進文化吸収の疎外になるとして、当時反対論も多くありました。鳩山和夫博士が提唱してます。


法学部の学生にはお馴染みの(?)「桃中軒雲右衛門事件」*3を受けて、大正9年の一部改正で「演奏・唱歌」を「著作物」のひとつとして規定したりなんかしています*4。


なお、旧著作権法下では著作権保護思想は希薄で「プラーゲ旋風」という事件が起こりました。
ドイツ人のプラーゲさんは、どうも日本がラジオで外国音楽を無断利用しているらしいと聞いた著作権管理団体から委託を受けて来日しました。それで使用料を請求したんですけど日本人は「え?外国の音楽って使うときお金払わなきゃいけなかったの?」「ぱくっちゃダメだったの?」というぽかーんな反応。プラーゲの請求をつっぱねます。
そしてベルヌ同盟脱退論が盛んに唱えられるようになりました。あの堀口大学とかも賛同していたようです。
まあそんな状況で、昭和9年には、出所明示すればレコードの無断放送は合法とかいうよくわからない規定ができました。なんかベルヌ条約違反が濃厚な感じの規定ですね…。
昭和14年には著作権仲介業務法が制定され、著作権管理団体ができて現在のJASRACにつながる団体ができました。プラーゲさんも日本法準拠の管理団体を作ろうとしたのですが、申請は却下されたそうです…。大変不憫なプラーゲさんについては

ウィルヘルム・プラーゲ―日本の著作権の生みの親

ウィルヘルム・プラーゲ―日本の著作権の生みの親

で詳細がわかります*5。


戦後の昭和45年、旧法を前面改正した現行著作権法が成立しました。その後も、社会情勢や国際環境の変化に応じて小刻みに部分改正がなされているのは、皆さんご存知の通りです。立法時の制度趣旨については加戸守行先生の本に詳しく書かれています。

著作権法逐条講義

著作権法逐条講義


以上、興味のある方は夏休み中にお読みになってみてはいかがでしょうか。

*1:なお、現在では出版社に対する保護は薄く、隣接権として認められていません。「版面権」として規定してはどうかという提案がなされていますが、どういうわけか認められていないようです

*2:copyrightさんからご指摘。「著作権を確立した人々」は、2004年に第2版が出ているそうです

*3:民法の授業で教わります。浪曲の名手だった桃中軒雲右衛門さんの実演が著作物と言えるかを争った戦前の事件。違法性理論の発展に寄与しました

*4:現行法では「実演」として著作物とは区別している

*5:smasuda先生からご指摘がありましたが、この本、フィクション的で愉快な本だそうです