ネガティブな感情が湧きあがったとき、それとうまいことやる方法というのを、教わった覚えはあるだろうか。気をてらった方法でもなく、有名人の我流でもなく、基本的でオーソドックスな方法。私は、ないと思う。
昭和生まれで義務教育も今よりガサツだった時代に育ち、大手企業がやるような体系だった新人研修も、管理職が受けるアンガーマネジメント研修も受けたことがなく、記憶力もとぼしい私には、こう教わりましたと思い出せるものが、これといってない。
それが先日、とある本*の中で「あぁ、これならやってる、日常使いしてるぞ」と思う感情調整の理屈に遭遇した。普段の生活を送る中で、野良作業しながらスキル獲得していたというやつだろう。本を読みながら、うまいこと自分の感情とやってるもんだなぁと気づくところがあった。
その理屈というのを図示して、おいておきたい。困っている人がいたとき、ぱっとこれを見せながら説明すると話が早そうだ、という自分の説明用にこしらえた一枚なので、足場だけ組んである感じで人には物足りないと思うが。使えそうだと思う方は、困っている人に説明するときなんぞに使えたら使ってください…。
感情調整のプロセス、心の健康との関連性(画像をクリック or タップすると拡大表示する)。
ざっくり言うなら、同じ状況でも、その状況にはいろんな意味づけができるわけで、多様な解釈スキルを向上させることが感情調整力の肝、心の健康維持にも寄与するという話。
人に伝える場合、実際には、相手に合わせてお手製シチュエーションを具体例挙げて示したり、本人が直面している苦難シチュエーションをネタ提供してもらいながら理解をたどるキャッチボールしてやらないと、知的満足は得られても実用に到達しないと思うので、その伝え方こそが肝になるのだけれど。
以下、理屈メモ。あと、ちょっとしたシチュエーション例も添えておく。
私たちは、いろんな状況で日々、嬉しいとか楽しいとか、腹が立つとかイライラするとか、悲しいとか寂しいとか不安だとか、焦るとか落ち着かないとか退屈だとか、恥ずかしいとか情けないとか、罪悪感がわくとか嫌悪感を覚えるとか、闘争心が芽生えるとかしているわけだが、あれが「感情」である。
で、同じ状況でも、どんな感情を経験するかは人によって違うし、どう処理したり、どう表出するかも人によって違う。個々人の性質(タイプ)によって、何を楽しいと思い、何に退屈さを覚えるかに違いが出るわけだが、それはここで論点としない。
また同じ人であっても、その時々のコンディションや、ちょっとした状況の違いで変わってくる。ふだんなら気に障らないことが気に障ったり、その逆もある。が、それもここでは焦点化しない。つまり「状況同じ、人が違う」「人同じ、状況が違う」いずれによる感情の経験差でもなくて。
ここで焦点化したいのは、その人の「感情調整」の力量、言わば感情を扱うスキルによって、感情の経験の仕方に違いが出るという話題。
感情調整とは何か。
人が、いつ、どのような状況で、どのような感情を経験したり、表出したりするかに影響する一連の過程を捉える概念
「イライラする」「不安だ」という負の感情を抱いても、それを処理する方法は人によって異なり、調整する力量(スキル)次第で、ネガティブな感情に振り回される回数は減らせる。うまく活用できれば、ポジティブなエネルギーにも変えうるという話だ。
上の図は、日々ふつうにやっているプロセスを、くどくど図にしてある感じ。なのだけど、これを意識化して、脳で捕まえて、心で扱えるようになることが大事なので、あえてくどくど図の内容を言葉に起こすならば、
1.感情が4つのプロセス(状況、注意、評価、反応)を経て生起する中で、
2.5つの感情調整(状況選択、状況修正、注意配置、認知的変化、反応調整)が、それぞれ行われうる。
3.世界中に多数ある研究成果をメタ分析すると、5つの感情調整プロセスは「心の健康」と関連するもの、しないものに結果が分かれる。
4.「弱いか中程度の効果」が認められたのは唯一「認知的変化」のプロセスである。
5.「認知的変化」というのは、置かれた状況への評価や捉え方を変えること。
つまり、自分が置かれている状況に対して、それがたとえ自分の力では変え難いと思える状況や環境だったとしても、置かれた状況をどういうふうに解釈するかは、いくらでも発想のめぐらしようがあるということ。少なくとも、解釈が1つで終わる状況などない。そう思うなら、それはスキル不足による思い込みだ。
例えば、ファミレスでパソコン持ち込んで一人仕事をしていたとして、家族連れが隣りの席に座った。子どもらがわいわい騒いで一気にうるさくなり、仕事に集中できなくなった。最初にイライラする感情がわいたとして、「でも、ここ、ファミリーのレストランだしな」とか「静かな空間で仕事に集中したいんだったら、それをサービス料に含んだ場所に行くなり、職場なり自宅なり自由がきく場所に行かなきゃいけないのは自分のほうだ」というように、自分の状況解釈に変更を加えるのが「認知的変化」だ。
こういうプロセスを加えると、最初にわいたイライラ感というのが、少なくともそれ単体で自分の心を占拠している不健康状態から解放されているだろう。
このファミレスのシチュエーションで、他のプロセスを例示するなら、
「状況選択」は、そもそもうるさい環境を予見してファミレスには行かないとか。
「状況修正」は、人気が少ないほうに席を移動させてもらうとか。
「注意配置」は、自分の注意をそらすべくイヤホンをするとか。
「反応」は、深く息を吐くとか、むっとした表情をするとか、睨むとか目を閉じるとか、だろうか。
この辺を解説する本のくだりを読んでいて、確かに「認知的変化」は、心の健康確保に日常使いしているなぁと思ったわけだ。
「自分自身」あるいは「話す相手」が直面している状況に合わせて、認知的変化を加えながらポジティブ感情を引き出すアプローチを考えていければ、日常かなり開放的に心の健康を維持・運用できる。その感情をエネルギーにして、「反応」後の具体的な行動選択、あるいは回避行動、人間関係づくりを展開していくこともできよう。
結局やっぱり、ちょっとお堅い文章になってしまったが、日々いろんな状況に直面する中で、いらっとすること、しょんぼりすること、ネガティブ感情を抱えることはままあることであり、むやみに周囲に変更を迫ったり、我慢して心を疲弊させたりせず、自分の「状況の評価の仕方、捉え方」を、うまいことチューニングして再解釈を与える。このオーソドックスな方法は、もっと日常使いされていいのではないかと素朴に思ったのだった。
いや、私以上にうまいこと使えている人もわんさかいるだろうことは承知の上だが。このスキルのたゆまぬ鍛錬は、感情の味わい方を豊かにするばかりでなく、人生の味わい方を豊かにするんじゃないかなぁって思うのだ。
*小塩真司 編著「非認知能力: 概念・測定と教育の可能性」(北大路書房)
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