毎年元旦は、中学時代からの友人と実家近くのマクドナルドで数時間しゃべり続けるのが、ここ数年恒例となっていた(二人とも未婚なのでまぁまぁ)。しかし今年は、年末に母の病気発覚と余命宣告、元旦は入院先から外泊届けを出して母が家に戻ってきている状況とあって、会うのが難しいと友人に連絡をした。
私が予想した友人の反応は、まぁ驚くは驚くとして「それじゃあ仕方がないね、落ち着いたら会おう」という返答だった。しかし意外にも彼女から返ってきたのは、私の母に会いたいというメールだった。
確かに昔、彼女と母とは顔をあわせたことがあるけれど、家は(当時の行動範囲でいうなら)近所というのには少し離れていたし、彼女とかなり親しくなったのは小学校を出てからだったから、そう頻繁に家を行き来していたわけでもない。
なので、「え、そういう反応?」と、まず驚いた。その意外な切り返しが彼女らしいとも思ったし、会ってどんなことを話したいってことなのかなぁと、意図をつかみきれない感じもあった。ただ、彼女は明確に、何か伝えたいと思うことがあってこちらに来たいと言っているんだろうという気がして、それを私が咎める理由もないし、では…と場をセッティングした。
1月3日の昼下がり。彼女が家を出たタイミングで、私も彼女の家のほうに向かい、途中で落ち合って二人で実家に向かった。道すがら友人から、うちの母が病状を一通り知っているのかと今一度確認され、そうだと答えた。
とはいえ、あの頃はまだ体調も比較的安定していたし、私たち家族も母本人も、あとわずかで亡くなるなんて現実味を帯びて考えられていないところもあり、せっかく外泊届けを出して家に戻ってきているのに、あとわずかであることを改めて突きつけるような会話が展開されたら、母にとっても、近くにいる父にとってもやりきれないのではないかと内心不安もあった。
それでも、私にとってその友人はとても大事な人で、彼女はそういうやりきれなさを重々承知の上で、それでも自分が言うべきことを言うのだと信念をもってやってくるような人だったから、彼女がやりたいということを、とにかく私は見届けるほかに選択肢がなかった。
彼女が母に会いたいと言い、母は会いましょうと応えた。その時点でこれは私の友人と母の約束になるのであって、もはや仲介者となった私がとやかくいう話ではないのだ。
私たちは家に着き、友人と私と母とで話し始めた。最初は友人の近況などが話題の中心だったが、数十分話して、そろそろ母も体力的に疲れが出てくるだろう頃合いに、彼女は母に、最後の話をした。
母も私も泣いた。この会話が始まるとき、「楽しいおしゃべりを!」と言って席をはずした父も、私の友人を玄関で見送る時、母が泣き顔だったのを見て、心に痛みを感じたと思う。こんな思いをさせるなら、会わせなきゃよかったと思ったかもしれない。
私もそのときは、こういうふうに引き合わせたことが良かったのかどうか、答えが出なかった。彼女のもつ鋭敏さは、それに慣れていない母には唐突で直截にすぎたのではないか。思い出さなくてもいい時期に、むやみに余命を思い出させるような機会を作ってしまったのではないかと長く引きずった。ただ、これは少なくとも今、答えが出るような問いではないのだろうと保留した。
その後、母が亡くなるまでの間、ほとんど来客はなかった。もし、ひと月の間に何人も来客があって、その都度最後のお別れをするといったことになっていたら、とても身がもたなかったと思う。
そうして今振り返ってみると、1月3日の友人の訪問は、やっぱりあって良かったんだなと思える。そしてあの限られた期間の限られた訪問者はやはり、彼女でなければならなかったんだと思う。
彼女は最後に、私のことを話した。私のことは心配ない、私は大丈夫だと言った。確か、私に出会わせてくれたことを母に感謝するようなことも言っていたかな。あれ、言っていなかったかな。なんだか、涙がぼろぼろ出てしまって、何を言っていたかよく覚えていないのだ…。すまぬ。
ただ、そのとき私が彼女の話を聴きながら思っていたのは、この話は、深く長く私とつきあってきた彼女にしか話せない話で、そのことを自覚して彼女はここに、この話をしにやってきてくれたんだろうということだった。
告別式に来てくれた短大時代からの友人からは、こんなメールをもらった。「友だちの親の人柄にふれるのはだいたい葬儀・告別式になってしまって口惜しい思いをする」、なるほどと思った。大人になってから、親に自分の友人を引き合わせる機会はほとんどないのだ。
一方で、小学校時代に親しかった友人は、母のことをよく覚えているといって連絡をくれた。顔も、声も、優しさも残っている。肩くらいまでの髪で、優しい笑顔で「まりこがね」「○○ちゃん」と話しかけてくれたのを今でもよく覚えていると。これもまた、彼女にしか言えないメッセージだった。何よりそれを伝えたいと思って連絡をくれたというのが、すごくありがたかった。
自分の友人というと、もはや母と面識がないことが前提になっていたから、あぁ、そうか、母をよく知っているという友人もいるんだなと、なんだかはっとさせられる思いがした。その時代の母の記憶なら、むしろ彼女のほうが私以上に鮮明にもっているのかもしれない。
私の母に一度も会ったことがない友人からも、この間にたくさん言葉をもらった。母の冥福を祈る。その一言を、定型の挨拶と受け流してしまうのはもったいない。なぜなら、その人は、会ったことのない私の母の死を、意識にとめずに済ますこともできたし、知ったとして何の言葉も発しないこともできたのだ。なのに、言葉をかけてくれた。立ち止まって、何かを思ってくれたのだ。会ったこともないのに。
そして私もまた、母に会ったことのない友人にも、届けたかった。私が社会に出て、その一人ひとりと親しくさせてもらえているのは、母から授かったものがあってこそと思ったからだ。そうして今、友人一人ひとりからもらった言葉に、気持ちに、心から感謝している。人間は尊い。ほんと、そう思う。
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