2011-12-27

1年前を振り返る

1週間ほど前から、1年前の今頃は…と振り返ることが多くなった。ふだんほとんどそういうことがないので、多くなったというより振り返るようになったというほうが適切かもしれない。

そして、今日。1年前の今日、夜遅く、会社帰りの渋谷駅で父から電話がかかってきて、母の余命宣告を聞いた。あれから1年経ったんだ。

だからといって、ここに何かの感情を吐露したいという感じもないし、1年経ってこう思いますと改まって書き記せるまとまった考えがあるわけでもない。ただ、なんとなく、1年経ったなぁということを、ここに書き留めたくなっただけだ。1年前、泣きながらここに書き留めていた「母の最期」のしめくくりに。

ここにいろいろ書き残しておいて本当に良かったな、と思う。今でも読んじゃーぽろぽろ泣いてしまうのだけど…、でもあのときのこと、あのときの気持ちをしっかりここに残しておいて良かった。

一方で、後になってやり損ねたなと悔やんでいることもある。それは、なんでさいごに、しっかり母を抱きしめてあげなかったんだろうという後悔だ。それで伝えられることは、きっとあったはずなのに。このやり残しをここに書き留めて、2011年もそろそろしめくくりです。

2011-11-20

家族4人の食事会と、遺影の前の心持ち

今週末は、父と兄と、遠方から妹も呼び寄せて4人で食事会をした。4人で集まっておしゃべりするというのは、実はなかなか機会がなかった。というか初めて?母がいるときは、母と5人でとかだったし、母が亡くなってから葬儀やら四十九日やら新盆やら全員集合するときはだいたい親戚もいたし、あるいは兄一家と一緒にご飯を食べたりだったから、4人でご飯というのはそういえば近年なかったかもしれない(忘れっぽいのでまったく自信がないが)。

いずれにしても、なんだか家族の気の置けなさ120%という感じで、ホクホク好い時間を過ごせた。予約したお店も、(普通の居酒屋だと思っていたのに)行ってみたら店構えからして趣きがあり、お料理もどれもおいしそうであり、実際おいしかった。松茸となんとかの茶碗蒸しなんて、薄っぺらい松茸がちょろっと乗っているだけかと思いきや、中までごろごろ入っていて、なのになんだか品があって。決して高くないのだが、いやー、我ながらいいお店を選んだ。そこらの安い居酒屋に連れて行かれると思っていた父も(連れて行ったことがあるからだが…)たいそう満足げだった。

母が亡くなってからはちょこちょこ実家に帰っているが、母の遺影を横においた仏壇の前に座るときの心持ちは、あれから9ヶ月を経て、だいぶ静かで落ち着いたものとなった。なってしまった、と思わないくらいまでに落ち着いた。その安定を得るのと歩幅をあわせるようにして、死生観のようなものも、自分の中にしっかり根をはっていった感がある。それを死生観というのかはよくわからないけれど。また、その全容をうまく言葉に表すことはまだできないけれど。

母の死にあって、生のはかなさを知った。知りきってはいないけど、それまでは死についてほとんど何も知らなかったのだということを少なくとも知った。人間は生まれてきたら、死ぬんだなと、それが以前よりははっきりとわかるようになったし、その途中途中で人は人に会って、関係を深めたりすれ違ったり別れたりして、いつか必ず死別する。

何かに興味を覚えて、それに深く踏み込んだり、あるいは興味を失ったり、何かを成し遂げたりして、それもいつか必ず終わりがくる。その終わりの時期もわからない。思いのほか長いかもしれないし、思いのほか短いかもしれない。

でも、その生涯の長いの短いの、どっちが先に逝っただのというのは、宇宙から見下ろせば、なんてたいそうな視点を持ち出さなくても、近所を歩いている猫の視点を借りたって、それがなんだっていうのだ、という話なのだ。すべては、自分の知りうる世界の人間の中でのお話であって、人間の外にとっては人の生も死も、その長さも前後関係も自然現象だ。私もその現象の一つにすぎないんだなと、そんなことを思う。人間の生に意味をもたせたり、私の生に何かの意味を与えようとするのも、人間が人間だから人間の中だけでやっているだけで、外から見たらなんでもない。

そういう思いとあわせもって、人を失えば激しく混乱するし、小さなことで一喜一憂するし、これに仕えて生きていきたいと思って四苦八苦する自分がいる。その個体は私の中にあって、生涯離れない。この両方を私は私の中に共存させながら、生きるところまで生きていくんだなぁと、そういう感じでいる。うまいこと表現できないけど、今書けることをとりあえず書いてみると、そんな感じなのだ。

そして少なくともこの感覚は、1年前にはこう書き起こせるほど自分の意識になかったし、それは私の中で確かな変化だ。進化か退化か知らないけれど、個人的には好ましい一つの成長だと思っている。まとまりはないけど、まぁそんな感じで。

2011-08-05

新盆前夜

母が亡くなって、初めてのお盆を迎える。去年は普通にお母さんいたのになぁと、ぽかんと思う。あんまり普通にいたから、どんなふうに昨夏を過ごしたかも思い出せない。子どもの頃からずっと、お盆といえば夏休みを意味していたのに、今年は文字どおりのお盆だ。

かなしみが薄れていくことが、くやしい。かなしみではない何かに、感情が移り変わっていくように感じられるのが、くやしい。今はいなくなったことより、そのくやしさで涙が出る。それもまた、くやしい。

母が亡くなった直後は、実家に帰ってくる度、遺影を前にぼろぼろ泣いていた。堰を切ったように涙があふれた。それが今は、あのときのどうしようもせき止めようのない感情が遠のいていっているのを感じる。それがくやしくて、涙が出てくる。くやしいなぁ、ちっぽけだなぁ、人間は…と思う。

いずれ生前の体温を、忘れてしまうのだろうか。笑顔もそのうち、自分の記憶からじゃなく写真をみて思い出すようになってしまうんじゃないか。そんなことが頭によぎって、ありえないことじゃないと思う自分にまた、くやし涙が出る。ちっぽけだなぁ、私は…と。

母の表情、母の姿は、私が終わるときまで、写真を見てじゃなくて、私の記憶から思い出し続けたい。失ったかなしみは背負ったままでいいから、母の記憶をそんなに遠のけないでねって祈る。どこかにもっていかないでねって祈る。結局こういう次元のことは、祈るくらいしか法がない。

自然の思うがままなんだな、私の中のほうまで全部、と思う。ちっぽけな人間が太刀打ちできないものに、逆らう気などわいてこないのが普段だけど、こればっかりはやっぱり、くやしさを味わう。この自分をわきまえて、最期まで生きていきたいと思う。

2011-06-20

父の日のメール

12月に帰ったときだったか、夜も更けてお父さんが寝室に行った後、和室で横になっていた母がおもむろに口を開いてこう言いました。「後のこと、頼みますね」と。私は何が心配の種だろうと思いながら、次の言葉を静かに待ちました。母の言葉は「洗濯機や炊飯器の使い方なんかは教えたんだけど…」と続きました。私は、そうかと思いました。心配されるというのは、あたたかいものですね。

2011-05-08

娘の分際

3日は、母の日のカーネーションを買って実家に帰った。夕方家に着き、遺影の前にカーネーションを。その後、父は就寝するまでの5時間ほど、ほとんどぶっ通しでしゃべり続けた。前回の帰省時からその日まで、大小さまざまな気がかりがたまり込んでいたようで、とにかく一つひとつ話を聴いては荷解きしていたら、5時間経過していた。この間に30個くらいのもやもやは晴れたのではないか…。

翌朝はお勤めしていたときのスーツ類を整理したいというので、一着一着クローゼットから出しては、これはいる/いらないの判断をして分類。台所にある使わなそうな調味料も、常備薬の箱の中にある使わなそうな薬も、気がかりだけど捨てられない…と困っているようなので、一つひとつ手に取っては品定めして、いる/いらないをざくざく分類。

要するに「いらない」とは思っているのだけど、もったいなくて自分では「捨てる」という判断がつかないという類いのもの。ものがない時代に生まれて「もったいない」がしみついているのだとは本人の弁。さらに一つひとつが母が買ったもの、母が使っていたものと感じられるところもあるのだろう。

とはいえ、虫さされの薬なんて使用期限をみてみると2001年もの、2005年もの、2009年もの、2012年ものと何本もあって(どのお宅でもそうなはず!)、「これはさすがに2012年もののラナケインだけでいいでしょう」と。すると父が「いや、2009年のは残しておこうか」とか言うので、「いや、2009年のも十分使用期限ぎれだし…」とたしなめて捨てるコーナーに。

でも確かに、こういう作業は二人であーだこーだやる分にはおかしみもあるけれど、一人ではやる気にならないものだ。ちっちゃな文字で、チューブの端に書かれた使用期限をチェックしていくのは億劫だし目も疲れる。そんなわけで、調味料の類いも同じように賞味期限ぎれのものをあーだこーだ言いながら整理。いやー、すっきりしたと父が安堵の表情を浮かべていて、これもよかったよかったの一件落着。

それから、お寺さんとお墓に足を運んで新盆と墓石の情報収集。帰りに伯母の家に立ち寄り、新盆の予定の情報共有におしゃべり。父がしゃべりたいことは父にしゃべらせて、言い損ねていることは「あと新盆の話」と促し、父が私に言ってほしそうなところはこちらで話を引き受け、従姉妹に「まるで秘書みたいね」と言われたが、一応母に代わって似非パートナー。

兄と妹と電話でやりとりし、新盆の予定も目処がたって、母の洋服ダンスにも一通り新しい防虫剤をセット。とりあえず諸々すっきり。なんとなく、今後の家族の中の自分の役割が位置づけられてきた感あり…。ひとまず大方今後の予定も見えたので、あとは一つひとつやっていくかという感じ。(似非)母さん頑張るっ。

父は毎朝起きると、まず仏壇のお水を新しくして、母にモーニングコーヒーを出し、続いて朝ご飯を作って母に出す。毎朝ありがとうとごめんねの言葉をかけているという。彼女のストレスを自分が半分でも負ってあげられなかったことを詫びているのだという。一人で出かける先は母との思い出の地。初めて一緒に暮らした団地にも足を運んだようで、写真を数枚撮っていた。どんな気持ちだったろう。

私が東京に戻る日、父は予定があって私より先に表に出ていった。「じゃあ、またね」と軽く挨拶をして。前日に父と私とで、いるものといらないものに分類したスーツの束は、2階の一室のじゅうたんに広げたままになっていた。私はその束を大きな透明の袋3つに分けて入れ、1階に移動し、「古着」と書いた紙を一袋ずつに貼った。次の市の有価物回収の日がいつかを調べ、何日の何時までにこの3袋を出しておけば有価物として市の人がリサイクルにまわしてくれる、雨天時はダメだそうなので翌週にまわすこと!と書き置きを残して東京に戻った。

つまるところ、娘にできることというのは、そういうことであり、それくらいのことでしかなく、それをこそすべきなのだと、そんな気がしたのだった。適当に選んだ慰めの言葉は、意味をもたないどころか、より一層の自責の念を生むことになりかねない。娘が父にかける慰めの言葉なんて、毒になることはあっても父を救うことには働かないだろうと気が引ける。父が私に、あなたのせいじゃないと言われて、どう救われるというのだ。

ただ私にできることは、父が吐く言葉一つひとつを丁寧に受け止めること。そして、こまごまとした父の気がかりを晴らすこと。例えば、父の古着を3袋に詰めて書き置きを残すこと。自分のために面倒な作業をかって出る娘があることの記憶は、少なくとも娘が父にかける慰めの言葉より救いがあるに違いないと信じて。父からは晩に「ありがとう。ありがとう。ありがとう。」とメールがあった。

2011-04-16

べそめも

実家に帰ってくると、やっぱりぼろぼろ泣いてしまう。まず郵便ポストのところで、母宛の郵便物を手にして、その時点でぐずっとくる。これを毎日父はやっているのだな、とも思う。玄関をあけて一歩中に入るとお線香の匂いがして、それでまた、少し距離をおいていた現実を感覚的に突きつけられる感じで、心がきゅっとしまる。玄関をあがると、まず洗面所に行って手を洗う。それから居間に入って、母のいる奥の応接間に向かう。母の遺影が、こちらを向いて微笑んでいる。それを見ると、もうぼろぼろ涙が落ちてくる。なんでおうちにいないのか。なんで写真の中で笑っているのか。どこにいったのか、今どこにいるのか。もういなくなってから2ヶ月も経つのに、相変わらず「ここにいるんだな」という具体的位置がつかめなくて、途方に暮れる思いがする。しばらく、特にこれという言葉も浮かんでこずに、ただぼろぼろ泣いている。そもそも千葉に戻ってきて、街を歩いている時点で、そこら中に母の思い出はあって、この街で正気で生活するのはなかなか…と思う。自分が東京で、どれだけ概念世界に偏って生きているかを痛感する。ともに過ごした土地に戻ると、わっと全身が対極世界に飲み込まれるのを感じる。人の気持ちというのは思いのほか、土地にひもづいているものなんだなと思う。ここに来ると、全身が途方に暮れる悲しみがあり、温かみがある。東京では自然距離をおいていた現実を、全身で受け止めて、身体が思い切り泣き出すのを、できるかぎり存分に泣かせてやって、バランスさせる。ほろ酔いの父の話を1時間ほど聴く。しっかりお見送りできて、遺体があってと、震災の不幸を思えばいくらでも、まだ良かったじゃないかという話は挙げられるのかもしれない。それでもな、それとこれとは別だよな。まったく私が思ったのと同じことを父は口にした。悲しみとは個人的なもの。比較できないものは比較するもんじゃない。個人的なものは、どこまでも個人的なものなのだ。個人的でない悲しみに、どんな意味があるだろう。

2011-03-05

母の還暦祝いだった

なんだか猛烈に仕事が忙しくなってしまったのだけど、いろいろご相談いただけるのは本当にありがたいこと。一つひとつ丁寧にこしらえております。というさなかではあるものの、今日は半日お休みにして、帝国ホテル17階にあるレストランへ。

母が亡くなって父がしょげきっていることもあって、以前から母の還暦祝いは帝国ホテルでやろうぜーと言っていた父を誘い出したのだ。そう、今日は母のお誕生日。生きていたら母の還暦のお祝いの日だった。父と妹、それに母のお姉さんが来られるというので、私含め4人で予約して、本日ランチに訪れた。

帝国ホテルのサイトを見てみたら、その中で一番カジュアルな(つまり安い)レストランがビュッフェスタイルで良さそうだったので予約。しかもインターネットで指定時間帯で予約すると、5300円が4500円になる。まぁそれでも高いっちゃ高いけれども、その辺は帝国ホテルってことで金銭感覚麻痺。

今日は東京からも富士山がきれいに見えたという素晴らしい晴天で(私は見ていないけど…)、17階からの眺望は見事だった。席に着くと、父がかばんから母の遺影を取り出して、これテーブルに置いてもいいかなぁというので、もちろん主役だしと、周囲にも気にならないふうな角度でテーブルに置いて食べ始めた。本当に豊かな空間で、父も伯母も妹もみな大満足の様子。いやぁ、東京まで呼び出した甲斐があったとほっとした。

一通りご飯を食べ終え、誕生日だし…とケーキを取ってきて食べ始めたところ、ホテルの人が別にローソクを立てたケーキをもってきた。そうか、サイトで予約したときプルダウンで何の用途か選ぶところがあって「誕生日」と選択しておいたから。

それでかと一人納得していると、ホテルの人がケーキのお皿を手にしたまま「どちら様がお誕生日で?」と。そりゃそうだ。お祝いする人の前にケーキ置かなきゃ。で、テーブルに置いていた母の遺影を手元に寄せ、できるだけ相手が困らないように「こちらの母なんです」と笑いながら言ったら、戸惑いを見せずに「そうですか」とケーキを置いてくれた。そして写真を撮ってくれ、出力したものをカードにして人数分くださった。

母と誕生日が近く、いつも一緒にお祝いしてもらっていた私がローソクの火を消した。すると、妹からプレゼントが。さすがに今回はすっかり自分の誕生日のことを忘れていた。それも、プレゼントは母とおそろいのネックレスで、母には還暦のお祝いということであかいの、私のはあおいの。私が普段アクセサリの類いを一切しないのは百も承知で、今回は特別だと。うん、これは嬉しい。大切にします。

その後、1階のラウンジでお茶。実はそこは以前、家族のお食事会の後に母と来たことがあって(コーヒー1杯だったら庶民でも飲ませてもらえるだろうと焼き肉屋の後に入った…)、父も思い出の地をかみしめているようだった。

しばらくくつろいでお開きに。予約したときは、まさかこんなに仕事が立て込むとは思っていなかったので、1日休みにしてそのままみんなと一緒に千葉に帰ろうと思っていたのだけど、とてもそんな状況ではなくなってしまったので、みんなとはホテルで別れて会社に向かった。まぁでも、とにかく父が豊かな時間を過ごせたようでよかった。んー、この週末ぐいっと仕事頑張って、近々実家に帰らねば。やっぱり大事なのは、何より一緒に過ごす時間なのだ。

2011-02-23

母と私の友だち

毎年元旦は、中学時代からの友人と実家近くのマクドナルドで数時間しゃべり続けるのが、ここ数年恒例となっていた(二人とも未婚なのでまぁまぁ)。しかし今年は、年末に母の病気発覚と余命宣告、元旦は入院先から外泊届けを出して母が家に戻ってきている状況とあって、会うのが難しいと友人に連絡をした。

私が予想した友人の反応は、まぁ驚くは驚くとして「それじゃあ仕方がないね、落ち着いたら会おう」という返答だった。しかし意外にも彼女から返ってきたのは、私の母に会いたいというメールだった。

確かに昔、彼女と母とは顔をあわせたことがあるけれど、家は(当時の行動範囲でいうなら)近所というのには少し離れていたし、彼女とかなり親しくなったのは小学校を出てからだったから、そう頻繁に家を行き来していたわけでもない。

なので、「え、そういう反応?」と、まず驚いた。その意外な切り返しが彼女らしいとも思ったし、会ってどんなことを話したいってことなのかなぁと、意図をつかみきれない感じもあった。ただ、彼女は明確に、何か伝えたいと思うことがあってこちらに来たいと言っているんだろうという気がして、それを私が咎める理由もないし、では…と場をセッティングした。

1月3日の昼下がり。彼女が家を出たタイミングで、私も彼女の家のほうに向かい、途中で落ち合って二人で実家に向かった。道すがら友人から、うちの母が病状を一通り知っているのかと今一度確認され、そうだと答えた。

とはいえ、あの頃はまだ体調も比較的安定していたし、私たち家族も母本人も、あとわずかで亡くなるなんて現実味を帯びて考えられていないところもあり、せっかく外泊届けを出して家に戻ってきているのに、あとわずかであることを改めて突きつけるような会話が展開されたら、母にとっても、近くにいる父にとってもやりきれないのではないかと内心不安もあった。

それでも、私にとってその友人はとても大事な人で、彼女はそういうやりきれなさを重々承知の上で、それでも自分が言うべきことを言うのだと信念をもってやってくるような人だったから、彼女がやりたいということを、とにかく私は見届けるほかに選択肢がなかった。

彼女が母に会いたいと言い、母は会いましょうと応えた。その時点でこれは私の友人と母の約束になるのであって、もはや仲介者となった私がとやかくいう話ではないのだ。

私たちは家に着き、友人と私と母とで話し始めた。最初は友人の近況などが話題の中心だったが、数十分話して、そろそろ母も体力的に疲れが出てくるだろう頃合いに、彼女は母に、最後の話をした。

母も私も泣いた。この会話が始まるとき、「楽しいおしゃべりを!」と言って席をはずした父も、私の友人を玄関で見送る時、母が泣き顔だったのを見て、心に痛みを感じたと思う。こんな思いをさせるなら、会わせなきゃよかったと思ったかもしれない。

私もそのときは、こういうふうに引き合わせたことが良かったのかどうか、答えが出なかった。彼女のもつ鋭敏さは、それに慣れていない母には唐突で直截にすぎたのではないか。思い出さなくてもいい時期に、むやみに余命を思い出させるような機会を作ってしまったのではないかと長く引きずった。ただ、これは少なくとも今、答えが出るような問いではないのだろうと保留した。

その後、母が亡くなるまでの間、ほとんど来客はなかった。もし、ひと月の間に何人も来客があって、その都度最後のお別れをするといったことになっていたら、とても身がもたなかったと思う。

そうして今振り返ってみると、1月3日の友人の訪問は、やっぱりあって良かったんだなと思える。そしてあの限られた期間の限られた訪問者はやはり、彼女でなければならなかったんだと思う。

彼女は最後に、私のことを話した。私のことは心配ない、私は大丈夫だと言った。確か、私に出会わせてくれたことを母に感謝するようなことも言っていたかな。あれ、言っていなかったかな。なんだか、涙がぼろぼろ出てしまって、何を言っていたかよく覚えていないのだ…。すまぬ。

ただ、そのとき私が彼女の話を聴きながら思っていたのは、この話は、深く長く私とつきあってきた彼女にしか話せない話で、そのことを自覚して彼女はここに、この話をしにやってきてくれたんだろうということだった。

告別式に来てくれた短大時代からの友人からは、こんなメールをもらった。「友だちの親の人柄にふれるのはだいたい葬儀・告別式になってしまって口惜しい思いをする」、なるほどと思った。大人になってから、親に自分の友人を引き合わせる機会はほとんどないのだ。

一方で、小学校時代に親しかった友人は、母のことをよく覚えているといって連絡をくれた。顔も、声も、優しさも残っている。肩くらいまでの髪で、優しい笑顔で「まりこがね」「○○ちゃん」と話しかけてくれたのを今でもよく覚えていると。これもまた、彼女にしか言えないメッセージだった。何よりそれを伝えたいと思って連絡をくれたというのが、すごくありがたかった。

自分の友人というと、もはや母と面識がないことが前提になっていたから、あぁ、そうか、母をよく知っているという友人もいるんだなと、なんだかはっとさせられる思いがした。その時代の母の記憶なら、むしろ彼女のほうが私以上に鮮明にもっているのかもしれない。

私の母に一度も会ったことがない友人からも、この間にたくさん言葉をもらった。母の冥福を祈る。その一言を、定型の挨拶と受け流してしまうのはもったいない。なぜなら、その人は、会ったことのない私の母の死を、意識にとめずに済ますこともできたし、知ったとして何の言葉も発しないこともできたのだ。なのに、言葉をかけてくれた。立ち止まって、何かを思ってくれたのだ。会ったこともないのに。

そして私もまた、母に会ったことのない友人にも、届けたかった。私が社会に出て、その一人ひとりと親しくさせてもらえているのは、母から授かったものがあってこそと思ったからだ。そうして今、友人一人ひとりからもらった言葉に、気持ちに、心から感謝している。人間は尊い。ほんと、そう思う。

2011-02-16

葬儀を終えて

なんだかんだと結局、母が亡くなった日の晩も、翌々日のお通夜の日の午前中も、告別式を終えた連休明けも数時間単位で出勤し続けていたのですが、今日は丸一日お休みをいただいてお寺さん、お墓、仏壇屋さんをまわり、とりあえず明日からは仕事を平常運転することに。

2/10は、まず病院から母を連れて帰り、葬儀屋さんとの打ち合わせ。お通夜と告別式の日程を固めて、諸々詳細の詰め。大方決まったところで一旦会社に行き緊急の引き継ぎ。その後また実家に引き返し、方々に通知。母方の親戚はもちろん、関西圏の父方の親戚も雪の中多く足を運んでくださって、2/11は実家で来客対応と葬儀の準備。2/12は午前中人にふりようのない仕事をしに行って、午後から千葉に戻って母を葬儀場へ送り出し、私たちも後から入って母の旅支度のお手伝い。その後、お通夜。2/13は告別式から火葬場へ、その後また葬儀場に戻って精進落とし(というか会食)。その後、母の遺骨を収めた骨壺を抱えて家に帰り、またあれこれ葬儀屋さんとお話ししたり、家族内であーだこーだのやりとりがあって。なんというか、てんこもりでありました。

せわしなくやらなくてはならないことがある中で、母を失ってしまったという現実に向き合い続けるというのはなかなかハードなもので、なかでもきつかったのは、病院を出て行くときから始まるお線香、お焼香の場面。なんで母を目の前にして自分がお線香をあげているのか、これは相当やりきれないものがありました(それは今もなお)。

また、母の顔や身体を拭いてあげたり、お化粧してあげたり、旅支度をしてあげるのに身体に触れていると、今にも目をぱちっと開きそうな顔がすぐそこにあるのに、触れれば身体はすごく冷たくて、その都度涙がこぼれました。火葬場で母を見送るときも、たいそうしんどいものがありました。ただやっぱり、母を好いてくれている人たちに囲まれて時間を過ごせたのは、何よりの支えだったと思います。

母の葬儀には200人近くの方が参列してくださいましたが、母親の葬儀にどれくらいの人が来てくれるかというのは、なかなか見積もるのが難しいものですね。会場手配や香典返し、食事の手配などあって、葬儀屋さんにおおよその人数目処をきかれるのだけど、どこからどれくらい来るものなのか見当がつかない。母方の親戚、父方の親戚、ご近所、母・父・兄・私・妹の友人や会社関係などで、とりあえずざっくり分類してみて、それぞれおおよその人数を見積もるしかありません。

しかし、最大200とみていて、本当に200人弱の方が集まってくれ、少し混雑しているくらいだったけれど、母もどこかでみていたとしたらとても嬉しかったと思います。私の友人も、急な通知にも関わらずお通夜や告別式に来てくれたり、弔電をくださる方、メールをくださる方などあって、本当にありがたく受け止めました。

しばらくは、このお話に関連したことをここに書くことも少なくないと思いますが、「死」にかかわる話といっても、しんきくさい話というのではなくて、もう一歩何か意味をもった話として昇華しながら、思うところを書き起こしていけたらいいなと思っています。という一方で、今後はまぁ、それ以外の話もここにあれこれ書いていくかと思いますが、今後ともよろしくお願いします。

2011-02-10

母の最期の日

今朝早く、母が息を引き取った。少なくとも癌の痛みに苦しむことはなく、父、兄、妹、私の家族全員に看取られて。59歳は早すぎるし、癌の宣告からひと月半とはあまりに速すぎるが、とにかく。

聴覚は最後まで生きていると聞いていたのに、昨晩から今朝にかけて言葉にできたのは、「ありがとう」「そばにいるよ」「大丈夫」、そして「また、会おうね」の四言くらいだ。あとは、鼻をすする音ばかり聞かせてしまった。けれど、時折うなずいてくれ、時折笑ってくれた。

息が、苦しそうになっていき、ゆっくりになっていき、とまり、引き返し、そしてすべてをはき出すような終息が2回あって、途絶えた。ずっとずっと、手を握り、目を見続けていた。

私がここにこまめに書き続けていたのは、翌日になると、今日想ったことがもう終わりになってしまっているからだった。昨日と今日とでは、目の前の現実がまったく違うものになっている、日々それの繰り返しだった。そして宣告からひと月半足らずでいってしまった。ふた月前には普通に東京に呼んで、ひと月に一度の「家族でご飯の会」を開いていたのに。

信じられない。まだ全然信じていない状態で、それでも母の顔をみると、現実を受け止めざるをえなくてどうしようもない。

本当に美しい人だったのだ。人の心を思いやること、言葉を大切にすること、善良であること。そうやって生きていくのが、当たり前のことなのだと教えてくれたのが母だったと思う。会話やふるまい、人への向き合い方、日々のことを通して彼女は私にそれを示し続けた。親から自然と、そして無自覚に譲り受けるのは、「自分にとっての当たり前は何か」ということなのかもしれない。

さいごになりましたが、ここでお話を読んで、メールをくださったり、声をかけてくださったり、サポートしてくださったり、またご自身の家族のことを改めて想う機会としてくださった方に、心からありがとうを伝えたいです。心から感謝しています。

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