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2024-09-24

「日本のビジネスパーソンは学ぶ習慣をもたない」を問題とするかどうか

国際的には勤勉なイメージをもたれている日本人だが、実際に国際比較すると「社会人になったとたん学ばない国民と化す日本人」と指摘するのは小林祐児氏(パーソル総合研究所)。著書「リスキリングは経営課題」では、まえがきから

日本のビジネスパーソンは、世界的に見ても圧倒的に学びの習慣がありません。

と記し、第2章ではこの点を掘り下げて、日本人の「中動態的」キャリア論を展開する。

昨今の「ジョブ型人事」「リスキリング」を取り上げたメディア記事に触れるたびに、論の底浅さを覚える自分自身を訝しむようになり、最近は努めて、こうして自分の眉間に皺がよる理由は何なのだ?と内省するようにしていたのだけど、上述のことが背景の一つにあるのかもなと再読して思い当たった。

18カ国・地域の主要都市で働く20~69歳の就業者(男女)を対象に、パーソル総合研究所が行った「グローバル就業実態・成長意識調査(2022年)」で、職場以外での具体的な学習や自己啓発活動について聴取したところ、日本は圧倒的に「何もやっていない」回答率が高かった。世界平均18.0%のところ、日本は52.6%、ダントツ1位である。

日本人の就業者の学ばなさ

(クリック or タップすると拡大表示する)

この問いは、別に「何かやっていますか?」「とくに、これといってやっていません」みたいなやりとりで導き出した割合ではなく、具体的な学習行動を選択肢として並べ、選択肢11項目の最後に「とくに何も行っていない」を含めたところ、それに回答をつけた人が、ずば抜けて多かったという結果だ。

具体的な選択肢は、次の通り。()内は、18カ国・地域中の日本の順位を入れた。

読書(17位)
研修・セミナー、勉強会等への参加(18位)
資格取得のための学習(14位)
通信教育、eラーニング(18位)
語学学習(18位)
副業・兼業(18位)
NPOやボランティア等の社会活動への参加(18位)
勉強会等の主催・運営(18位)
大学・大学院・専門学校(18位)
その他(18位)
とくに何も行っていない(1位)

順位でみてみると、1つ目の「読書」は僅差でスウェーデンを上回って17位、3つ目の「資格取得のための学習」は下から5番目の14位なのだが、あと全部が最下位。こうやって見ていると、圧巻というか、あっぱれという感じがしてくる。

ここまでの特異性をもっているって前提に立つと、これを問題として取り扱うべきなのかなって気がわいてくるのだ。問題として解決しようとするのってなんか無理筋というか悪手というかセンスがないというか。

この特異性を別の見方をもって活かせないものだろうかと。これは「解決すべき問題」として扱うより、「変えられない環境条件」と位置づけた上で戦略を練ったほうが奏功するんじゃないかと。

そんなことを思う背景にはもう少しいろいろあって、先の「中動態キャリア論」的な文脈も敷いて丁寧に言及すべきことではあるし。また、もちろん、そのままでいいと全面肯定する話でもなく、「これは問題だ」として「策を講じる」素直な流れもあって当然とも思っている。

のだけど、その辺いったんすっ飛ばして、そんなこんなを背景にして私は、昨今の「社員のキャリア自律を促進してですな」とか「キャリア研修を充実させてですな」的なのを、表層的で、実効性なさそうで、あんまり筋良くなさそうだなぁという思いもたげていたのかなぁと思った次第。

ここまでの圧倒的な特異性をひっくり返すのって、そう簡単ではない気がするし。少なくとも、この特異性も踏まえて問題の特定、課題の設定をして策を練るべきだし。できることなら、この特性をうまく別の解釈もちこんで、活かす方向に戦略を練れたら良さそうだなぁと。具体的な案件で現場で何か活かせる機会が到来したあかつきには、この辺も織り込みながら底深く練れるように引き続き揉みほぐしを続けたいところである。だいぶ雑な文章になってしまったが、詳しくは下の調査レポートや新書などで…。

*パーソル総合研究所「グローバル就業実態・成長意識調査(2022年)」

*小林祐児「リスキリングは経営課題~日本企業の「学びとキャリア」考」(光文社)

2024-09-22

同じ本を読んでも、読書は個人的体験にならざるをえない

しばし静けさとともに暮らした。「丘の上の本屋さん」というイタリアの映画を観ていたら、カルロス・ルイス・サフォンの小説「風の影」の中に出てくる一節が出てきて、心を鷲づかみにされた。主人公が営む小さな古書店の入り口に、こう掲げられている。

持ち主が変わり、新たな視線に触れるたび、本は力を得る。

古本屋にぴったりの名文句だが、それにとどまらない魅力を放つ。これに惹かれて、私はサフォンの「風の影」を買い求めた。遅読家ながら、上下巻で800ページ強を読み進めて、このほど読了した。

上の一言を示す本文は、上巻のかなり最初のほうに出てきた、この辺の一節じゃないかと思うのだが。

おまえが見ている本の一冊一冊、一巻一巻に魂が宿っている。本を書いた人間の魂と、その本を読んで、その本と人生をともにしたり、それを夢みた人たちの魂だ。一冊の本が人の手から手にわたるたびに、そして誰かがページに目を走らせるたびに、その本の精神は育まれて、強くなっていくんだよ。

そうだとすると、さきの映画で字幕翻訳した人の手腕には脱帽するほかない。

さて、サフォンの魂が宿っていることに疑いようがない「風の影」を、私は私で、この本が強くなっていく一端を担えるよう丁寧にページをめくっていった。

読者も誰ひとり同じではなく、同じ本を読んでも、同じようには受け取れない。それが読書なのだということを受け取る作品でもあったのだ。

読書は個人的な儀式だ、鏡を見るのとおなじで、ぼくらが本のなかに見つけるのは、すでにぼくらの内部にあるものでしかない、本を読むとき、人は自己の精神と魂を全開にする

「ぼくらが本のなかに見つけるのは、すでにぼくらの内部にあるものでしかない」というのは、読者各々が負っている制限や限界もにじませるが、一人ひとりが固有の読書体験を得るという創造的価値も併せもつ。

例えば「この上下巻の中から、心に刻まれた一節をひとつだけ取り出すとしたら、どこ?」と問われて、読者ごとに指し示す場所は異なるだろう。長編小説の名作であればこそ1箇所におさまらないという面は多分にあろうけれども。

ちなみに映画「丘の上の本屋さん」の静けさとまったく様相を異にして、小説「風の影」はかなり壮絶な物語。そんな中で、私がひとつ挙げるとしたら上巻に出てきた、この一節になろうか。

「フリアンはひとりで死んでいったの。自分のことも、自分の本のことも、誰も思いださないだろう、自分の人生はなんの意味もなかったって、そう納得して死んでいったのよ」と彼女は言った。「フリアンは知りたかったにちがいないの。自分に生きていてほしいと思っている人がいる、誰かが自分を覚えていてくれるって。『誰かしら覚えてくれている人間がいるかぎり、ぼくらは生きつづけることができる』彼は、いつもそう言っていたわ」

「納得」という言葉選びに共鳴したのだ。私は納得するように生きている向きがあり、そう言うと刹那的に受け取られかねないが、そこに立脚してこそ楽観的に生きていけることもある、私のスタンスはそういうものだ。

そこに、2つ目の文が呼応してくる。1文目は「納得すること」、2文目は「納得しないで希望すること」。1文目は「厳しさを受け取る強さ」、2文目は「厳しさを受け取れない弱さを認める強さ」、この2つが響き合っているように読めた。ひと連なりに、不可分に、どちらにも正しさなどなく、丸呑みするように一息に両面を抱きこんだ文章。そこに人のたくましさ、やわらかさ、尊さを感じるのが、私の読み方だ。

「丘の上の本屋さん」の古書店主リベロによれば、「本は二度読むんだ。一度目は理解するため、二度目は考えるため」だとか「最初に考えたことが、すべてじゃない」という。再びこの闇に入っていくのは大変なのだけど、考えるための二度目をもつ読書習慣をもっていきたい。

やや久しぶりに長編小説を読んで、なんだか姿勢正される思いもした。表層的な見立て、うわ滑った言葉、形式だけのふるまいに溺れることなく、自分は自分が大事にしたいことを丁寧に見立てて、言葉やふるまいを選んで、自分の日常をやっていくだけなのだ。

*カルロス・ルイス・サフォン「風の影」(集英社)

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