『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』あの事件の真相が語られる?!

2016年11月16日 印刷向け表示
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狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ
作者:梯 久美子
出版社:新潮社
発売日:2016-10-31
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島尾敏雄『死の棘』を読んだのは、大学生のときだ。当時、虚実入り混じったスキャンダラスな私小説として評判になっており、興味本位で手に取ったのだと思う。濃密な描写に引きずられるように読みふけり、この作品から「男女の愛」について一つの定見を得たように思ったのだ。

ただ、そのときは“私”とはいえ、小説だと思っていた。事実は事実のままに、かなりの創作が入った美化された物語。読者のほとんどがそう思っただろうし、この作品を論じた評論家たちも、それを念頭にいれて語っていたと思う。だが『狂うひと』という作品はそのすべての概念をひっくりかえしてしまった。

ノンフィクション作家の梯久美子が『死の棘』のヒロイン、島尾ミホに興味を持ったのは浜辺に立つ一人の老女、ミホの写真を見たことによる。彼女もまた作家であると知り『海辺の生と死』『祭り裏』の二作を読んで会いたいと思ったという。

インタビューをしたのは、平成17年から翌年にかけてのことだ。ミホはこのとき86歳。夫で『死の棘』の著者である島尾敏雄とは19年前に死別していた。人前ではつねに喪服で通したというミホは、梯のインタビューもチュールのついた小さな黒い帽子に黒いワンピース、真珠のネックレスという姿だった。

4回目の取材の折、ミホは『死の棘』の冒頭部分、彼女が精神の均衡を失った事件の真相を語りはじめる。小説の中で執拗に繰り返される夫への詰問と束縛。その始まりがなんであったかを、小説ではなく当人が告白しているのだ。梯は懸命にノートに書きとる。彼女の半生を書きたいと申し込み、協力を快諾したミホだが、このインタビューを最後に、取材は突然中止された。

『死の棘』という作品は、第二次世界大戦末期、奄美群島の加計呂麻島に特攻艇「震洋」部隊の隊長としてやってきた敏雄と代用教員だったミホが愛し合い、出撃の直前に終戦を迎え、結婚し、子どもを儲けながら、夫の浮気で妻が正気を失った後の壮絶な生活を描いている。日本文学大賞、読売文学賞、芸術選奨を受賞した島尾敏雄の代表作である。死の崖っぷちから幸せの絶頂へ、その後どん底に落ちていく夫婦の姿のすさまじさは、いまだに多くの読者を魅了している。

ごく普通の結婚式の写真だ。だがその後のことを知れば、少し背筋が寒い。

一度は評伝を諦めた梯だが、ミホの死後、夫妻の長男で写真家の島尾伸三氏の了承を得て取材を再開する。きれいごとにせず、見た通り、考えた通りに書いてほしいという返事をもらい、奄美に残された島尾家での遺稿・遺品整理に参加した。

残されていた膨大な資料を詳細に検討し、敏雄とミホが残した作品や手紙などと突合せ、『死の棘』には何が描かれていたか。二人の間にはどのような信頼と裏切りがあったのかを具体的に積み上げていく。

ミホが精神科病棟で暮らしていた時期の日記にはこんな紙が挟まっていた。

血判入りの誓約書

島尾の日記にも出てくる文面だ。顔面に足蹴りを喰らい、至上命令として事の如何を問わずミホの命令に一生服従す。如何なることがあっても厳守する、というこの紙を壁に貼っていたという。島尾の遺品にはミホの説明書きが多くついていた。後に書き入れたのであろうが、その時ミホはどんな顔をしていたのか。

島尾夫妻が最後まで隠そうとした事実もまた発見された。ミホが狂う原因となった敏雄の日記は破棄されたと思われていた。古い紙箱に無造作に入れられた紙片。なにか禍々しいものが取り憑いてるようだ。

破棄されていたと思われていた敏雄の日記の一部

梯は11年の歳月をかけ、残されていた膨大な資料を詳細に検討し、敏雄とミホが残した作品や手紙などと突合せ、『死の棘』には何が描かれていたか。二人の間にはどのような信頼と裏切りがあったのかを具体的に積み上げていく。

それは今までの文学評論とは全く違う、生々しく愚かな人間を辿る旅になった。初めて公開される資料や写真には『死の棘』でさえ穏やかだと思える妄執が渦巻いていた。最後の一行を読んだとき、私は比喩でもなんでもなく、椅子の上で凍りついた。評伝作品の大傑作であると断言する。

(週刊新潮11月10日号に掲載したものに加筆。写真は編集部よりお借りしました)

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死の棘 (新潮文庫)
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 この日記にはミホの手が入っているので、原本とは異なっている。

1990年、小栗康平監督、松坂恵子主演で映画化もされている。1990年 カンヌ国際映画祭 審査員グランプリ 日本アカデミー賞主演男優賞・主演女優賞 日刊スポーツ映画大賞主演女優賞

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