『にわかには信じられない遺伝子の不思議な物語』 ホッキョクグマの肝臓を食べてはいけない

2013年10月23日 印刷向け表示
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にわかには信じられない遺伝子の不思議な物語
作者:サム・キーン
出版社:朝日新聞出版
発売日:2013-10-08
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ワトソンとクリックによりDNAの二重らせん構造が明らかにされて60年以上が経過し、私企業のサービスを利用すれば個人でも気軽に遺伝子解析が行える時代となった。アンジェリーナ・ジョリーが自らの遺伝子検査結果をもとに乳房切除を決断したように、遺伝子分析の結果が私たちの意思決定に影響を与える事例もみられる。しかし、わたしたちは自分の未来を委ねられるほどに、遺伝子のことを理解しているだろうか。

 

著者は、そもそも遺伝子とDNAはどう違うのか、から説き始める。多くの先人たちの努力によって、遺伝子の役割は少しずつ、だが確実に明らかになってきている。本書では、教科書的な堅苦しい説明ではなく、遺伝子と人類にまつわる不思議な物語を追っていくことで、遺伝子への理解を深めてくれる。

 

生命誕生から現代のエピジェネティクス研究までをカバーする本書の物語は、驚きに満ちている。まさに、「にわかには信じられない」エピソードのオンパレード。『不思議の国のアリス』の話題が出たかと思えば、冒険家とホッキョクグマとの死闘へと展開し、ヒトとチンパンジーを交配させようと企む科学者まで登場する。バラバラにみえるエピソードを、遺伝子を軸に1つの物語として紡いでいく著者のストーリーテリング能力には脱帽だ。なぜ「ホッキョクグマの肝臓を食べてはいけない」のかも、本書内で魅力的なストーリーと伴に解き明かされる。新たな章へ進む度に「あれ、このトピックって遺伝子と関係あるの?」と思い、その章を終えるころには「そうやって繋がっていくのか!」と納得させられるはずだ。

 

本書の原題は、『The Violinist’s Thumb』(バイオリニストの親指)である。このタイトルが示すバイオリニストとは、19世紀のイタリアを生きたニコロ・パガニーニ。超絶技巧で知られ、史上最高のバイオリニストとも称されるパガニーニの親指が、遺伝子がテーマのこの本のタイトルになったのはなぜか。それは、彼の指が「親指をねじって手の甲の向こうの小指に触れさせることができ」るほどに柔らかかったからだ。

 

著者は異常ともいえるこの柔軟性や虚弱体質、彼を苦しませ続けた様々な症状から、パガニーニがエーラス・ダンロス症候群(EDS)だった可能性を指摘する。EDSと呼ばれる遺伝子疾患患者は、コラーゲンを十分につくることができない。コラーゲンは靭帯や腱を硬くする線維細胞であり、その慢性的な不足は筋肉疲労、虚弱な肺や過敏な腸などをもたらす。これらの症状は、パガニーニを襲っていたものとピタリと符合するのだ。

 

史上最高のバイオリニストをもたらしたのは、遺伝子疾患だったかもしれないと著者は推測する。パガニーニだけではない、フランスの画家ロートレックも、近親婚がもたらす遺伝的負荷を背負っていた。著者は、さらに数十万年前にまで時計の針を巻き戻し、DNAと芸術の関係を掘り下げていく。

 

本書では、山口彊(やまぐちつとむ)という日本人が大きく取り上げられている。「20世紀で最も不運な男」とも呼ばれる山口は1945年8月6日、三菱重工広島造船所への出勤途中に被爆した。彼は命からがら家族のもとへと向かい、なんとか8月8日の朝に長崎に到着する。そして翌日、会社の指示に従い出勤した長崎造船所で山口を待っていたのは2度目の被爆だった。

 

当時の放射線専門家たちは、山口のように強い放射線被を浴びた人体、DNAにどのような変化がもたらされるかを知らなかった。そのため、無慈悲で残酷な予測も多く出されたが、その後の研究により現在では以下のようなことが明らかとなっている。

日本全体では、長いあいだ恐れられていたように、被爆者の子どもにがんや先天性欠損が異常発生することはなかった。実のところ、被爆者の子どもは何らかの病気の罹患率が高いという証拠も、突然変異の率が高いという証拠も、大規模な調査で見つかっていない

DNAがどのように壊れ、修復されるのか、先人たちの積み重ねによって今では様々なことが分かるようになっている。

 

驚愕のストーリーは本文には収まりきらず、巻末の原注にも見逃せないエピソードが満載だ。例えば、映画『レインマン』のモデルとなったキム・ピークの超人的記憶力が紹介されている個所につけられた原注では、モルモン教とDNAの不思議な物語についての記述がある(ピークは敬虔なモルモン教徒だった)。モルモン教は、ポリネシアンもアメリカ先住民も紀元前6000年前のユダヤ人の子孫であると信じていたが、DNA検査によってこれが誤りであることが明らかになった。この結果はモルモン教徒たちに大きな混乱をもたらし、その教義をも揺さぶっていく、という具合に1つの章として成立しそうなネタが原注にまで盛り込まれているのだ。400頁以上のボリュームの本書でまだ満足できないという方には、著者のHPに本書に収まりきらなかったエピソードが集めてあるので、こちらもおススメ。

 

本書には本当に多くの科学者たちが登場する。メンデル、ダーウィンに始まり、ショウジョウバエと格闘したモーガン、DNA研究のパイオニアであるシスター・ミリアム、ヒトゲノム計画を加速したベンターなど。数え切れないほどの科学者たちが、想像もできないほどの努力の末に辿り着いた成果をつないで、そして現在がある。ニュートンのいう「巨人」とは、このようにつくられてきたのだ。科学の成果だけではない。私たちの遺伝子も、遥か昔の生命の誕生からつなぎ続けられたものである。数十億年の時を経て、私たちの遺伝子が繋がり続けていることこそが、にわかには信じられない奇跡の物語なのかもしれない。

 

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