今年のマイ・イベントが全部終了した。

 先週の金曜(11月18æ—¥)に、横浜国立大学主催のリレー講演会「社会と数学」のぼくの担当分「数学的思考の技術」(日経書評のこと、横国での公開講座のこと - hiroyukikojimaの日記参照)が終わった。聴きにきてくださったたくさんのかたがた、ありがとうございました。
 この講演では、「数学がテクノロジーとして使われている例」をいくつか紹介した。たとえば、「忍者が堀の深さを知るのに水草を引っ張ってみること」とか、「3つの円の3本の共通弦は必ず1点で交わる、という定理が、地震の震源地の特定に使われていること」など。これは、拙著『キュートな数学名作問題集』ちくまプリマー新書からのネタ。
それから、グーグルの検索エンジンの優先順位が、実はいわゆる「固有値問題」に帰着されるわけなんだけど、それを模した問題として「ネズミの王様選挙」を紹介した。これは、日経ビジネスアソシエのインタビューでネタとして使ったもの。
さらには、いわゆる「ハーディ・ワインベルクの法則」と呼ばれている血液型に関する法則。これは、例えば、日本人の血液型の分布が、A型、O型、B型、AB型がそれぞれ、38.2%、30.5%、21.9%、9.4%、となっているが、これから遺伝子型AA, AO, OO, BB, BO, ABの分布を求める、というもの。未知数は6個(足して100%になることを踏まえると5個といってもいい)あって、情報は4個(足して100%になることを踏まえると3個といってもいい)しかないので求まらないように思える。でも、ある仮定(結婚行動あるいは生殖行動が遺伝子と独立である)を導入すれば、非常に初歩的な計算で遺伝子型の分布を決定できてしまい、しかもその仮定の正当性が内生的に支持される、という優れものの法則なのである。数学の利用の仕方の模範といっていいものだ。このネタは、ぼくは本に書いたことがなく、ぼくのすべての本を読んでいる読者がいるかもしれないから導入したネタだった。
あとは、数学の概念の文学への応用として、村上春樹の小説を例とした。『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と『ノルウェーの森』について、トポロジーの「同相」という視点から言えば、この2つの小説はある意味で「同じカタチをしている」ということだ。(ちなみにこのことは、オリジナルではなく、物理学者の田崎晴明さんからご教示いただいたもの)。これは、拙著『数学的思考の技術』ベスト新書に書いたネタだ。この本が刊行されたあと、ブログやツィッターで感想を検索してみたけど、(このネタ以外にもいろいろ論じた)ぼくの村上春樹論に対しては、賛同者も多い反面、ぼろかすにけなしている人も見かけられる。まあ、あれほどの大作家だから、自分と異なる批評や読解に対して、違和感や不快感を持つ人がいるのは仕方ないとは思う。でも、最近みつけた、東大文学部の教官である阿部公彦さんというかたの批評(『数学的思考の技術 ― 不確実な世界を見通すヒント』小島寛之(KKベストセラーズ) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG)があまりにすばらしいので驚いた。ぼくが仕掛けたことを、ほぼ正確に読解して(見抜いて)いる。こういう鋭い人が世の中にいると思うと本の書き甲斐がある、というものだ。
講演を聴いてくださったかたに内容がどの程度伝わったかは不明だが、初歩的な数学が自然や社会に隠された「構造」を暴きだせることを、ぼくの知っている限りの例を投入して説明したつもりなので、成果に関しては満足している。
今年のぼくにとっての大きなイベントは3つあった。
第一は、サイエンス・コミュニケーターの内田麻理香さんとのジュンク堂でのトークショー(ジュンク堂でトークショーに参加します。 - hiroyukikojimaの日記参照)、第二は大学のゼミ生によるゼミライブへの出演、そして、第三は、この横国主催の講演会だ。どれも、エクサイティングな体験で、緊張はしたけど、終わってみるとみな楽しい経験となった。
でも、どれが一番の思い出になったか、と聞かれれば、それは間違いなくゼミライブ。なぜなら、バンドを結成してステージでギターを弾くのが、ぼくの長年の夢だったからだ。
ぼくが、いろんなことに目覚めたのは13歳(中学1年)のときだった。このころ、ぼくは、3つの夢を抱いた。第一は、数学の学者になること。第二は、小説を出版すること。第三は、ロックバンドでギターを弾くこと。この3つの夢は、そのままの形ではないにせよ、3つとも叶うこととなった。ただし、なが〜い時間を経て。最初に叶ったのは、「小説を出版する」ことだった。ぼくの最初の本『数学迷宮』(現在は、『無限を読みとく数学入門』角川文庫として復刊)は3分の1が小説だった。これを刊行したのは、33歳のときだった。夢を持ってから20年が経過していた。その次に夢が叶ったのは、それから約10年、42歳のときだったといっていいだろう。これは、経済学者として大学にポジションを得たときだった。数学者ではないけど、一応、学者になる夢は30年の時を経て達成された。そして、それからさらに約10年、53歳の現在に、最後の夢であるロックバンドでステージに立つこと、が達成された。なんと、40年もの時間がかかったのだから感無量である。これらのことで、ぼくには、夢というのは諦めなければいつか叶うもの、と思えた。ただし、思った形とは多少違うかもしれないし、何より膨大な時間がかかる。
振り返ってみると、これらの夢が叶ったことには、単なる偶然ばかりではなく、ぼくの人生での選択や意思決定が関与しているように思える。そして、かなった夢たちの間に、ある種の関連性があるようにも思える。
ぼくは、学問を(数学を)したかったため、できるだけ数学が勉強できる環境に身をおこうと考えて、塾講師という職業を選んだ。当時の日本はバブルに向かう途上であり、また、金融が高度化する段階にあったから、東大の数学科には、金融関係やコンサル関係の人事のかたがスカウトに来ていた。もちろん、ぼくが応募しても採用してもらえるかどうかは確かではないが、可能性は小さくはなかっただろう。でもぼくは、そういう世界に行くことは選択せず、塾で数学を教える道を選んだ。
塾で、多くの院生たちと議論したことは、ぼくのその後の学問に大きな影響をもたらしたと思う。でも、最も直接的に現在のぼくの姿に寄与したのは、塾での生徒の保護者のかたがただった。まず、ぼくの最初の本『数学迷宮』を出版してくださったのは、生徒のご両親だった。ぼくの塾のテキストやパンフレットの文章を読んで、この先生の本を出版してみたい、と考えて企画してくださったのだった。このことには、今でも恩義を感じている。また、ぼくに経済学の大学院に行くことを熱心に説得し、大学教員になることにもいろいろ手助けをしてくださったのも、別の生徒の親御さんだった。これは奇跡的な出会いだといっていい。塾の先生をしていなければ、こんな奇跡には遭遇できなかっただろう。そして、今回のバンドでステージに立つ夢は、大学のゼミ生諸君のおかげで叶ったのだから、これもそれらの出会いの延長線上にあったといえる。
若い人に助言できるほど、ぼくはりっぱな人生を歩んでいないし、どちらかといえば、ダメ例に近いと思う。だけど、あえてそれでも助言するなら、「夢とは、常にリアルな距離を持つべし」と言いたい。ミュージシャンをやりたい、ゲームクリエイターになりたい、小説家になりたい、などさまざまなハイブリットな夢のために、フリーターを選ぶ若者をみかけるけど、ぼくの経験ではフリーターのどこにもそれらの世界への入り口はないと思える。(稀有な成功例だけみると、フリーターから入ったように見えるけど、それは観測できない膨大な失敗例の中の例外なのだ)。何かを夢を実現したいなら、近い距離になくとも、「リアルに道がつながっている」職業を選ぶべきだと思う。そして、長い時間がかかろうが、腐らずに、虎視眈々と、チャンスを狙っているべきだと思う。どんな「平凡な仕事」にも、魂をこめて臨んでいるべきだと思う。誰がどこで観ているからわからないからだ。人生は意外性に満ちている。不思議な出会いに満ちている。「普通の仕事」をばかにせず、それらのどこかから、夢への扉が開くチャンスを、虎視眈々と狙うべきだと思う。

キュートな数学名作問題集 (ちくまプリマー新書)

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数学的思考の技術 (ベスト新書)

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