イラク派遣「違憲」判決批判

イラクにおける自衛隊の空輸活動を違憲とした名古屋高裁の判決について、覚え書きをしておきたい。

自衛隊のイラク派遣に「政治的」立場として反対していた者は、判決を好意的にとらえるだろう。逆に、イラク派遣について「政治的」立場として賛成していた者は、判決には到底納得できないだろう。

しかし、裁判所に求められているのは「政治的」判断ではなく、「法的」判断である。法的な見地からすれば、判決には疑問がある。

最大の問題点は、判決が理由中で憲法違反を認定しながら、結論として原告の請求をいずれも退けた点にある(イラク派遣の違憲確認請求及び差止め請求は却下、国に対する損害賠償請求は棄却)。要するに、憲法違反の判断は、判決の結論に無関係な「傍論」に位置づけられるのである。

この点について、朝日と毎日の社説が無視を決め込んでいたが、読売と産経の社説は正当に指摘していた。

裁判所の判決には、執行力が伴う。執行力とは、民事事件においては敗訴被告の財産を強制的に差し押さえる力であり、刑事事件においては有罪被告人を強制的に身体拘束する力である。こういう強制的な「力」が伴うことによって、裁判所の判決は意味のあるものになるのである。

そうすると、結論として原告の請求を全て退けた今回の判決には、法的には何の意味もないことが分かるだろう。憲法に違反する国家行為があると認めながら、裁判所は当該国家行為を是正しないという判決なのである。そうであるがゆえに、判決後、町村官房長官は派遣続行を表明することができたのである。

したがって、判決に対しては、左右両サイドから批判を加えることができる。まず、左サイドからは、「違憲であれば差し止めを認め、裁判所は政府にイラク撤退を強いるべきだ」(http://mainichi.jp/area/okinawa/news/20080418rky00m010001000c.html)という批判があってしかるべきである。国家の行為に憲法違反という重大な違法があることを認める以上、その状態を放置することは許されないという、正当な批判である。

右サイドからは、結論として請求を認めないならわざわざ違憲判断をするなという、読売・産経社説の批判である。憲法理論的に言えば、憲法判断は事件の解決にとって必要な場合以外は行わないという「憲法判断回避の原則」がある。請求認容判決を出してしまうと、イラク撤退という重大な政治的効果が生じることに躊躇を感じるならば、高度に政治的な国家行為に対して裁判所の審査権は及ばないという「統治行為論」というツールがあるはずだ。にもかかわらず、そんなのはおかまいなく傍論を書きまくるのはおかしいという、これまた正当な批判である。

裁判所がなすべき判断は、(a)イラク派遣は憲法違反であり、原告の請求は認容されるとするか、(b)憲法判断には踏み込まず、原告の請求を退けるのどちらかである。少なくとも、判決のような(c)イラク派遣は憲法違反だけれども、原告の請求は退けるなどという理屈は、筋が通らないと思われる。

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というのが、裁判所の機能論についての原理原則的な考え方、すなわち権利保護機能と紛争解決機能を重視する理解を貫いた話である(この原理原則に忠実な立場からの著作として、井上薫『司法のしゃべりすぎ』新潮新書)。

確かに、一般的な訴訟においては、その中心的争点が原告の権利利益を回復することに置かれるのであるが(権利保護機能)、本件はそうではない。いわゆる「政策形成訴訟」の側面があるからである(「現代型訴訟」とか「社会的争点提起訴訟」と言われることもある)。

政策形成訴訟とは、上記のような原理原則的な裁判所の機能を超えて、訴訟が行政や立法機関に一定の施策や立法的措置を講じさせる政治的・社会的インパクトを与えることも目的とする訴訟である。政策形成訴訟によって政策実現した最近の例としては、ハンセン病国賠事件や薬害肝炎訴訟,残留孤児国賠訴訟,原爆認定集団訴訟がある。

裁判に政策形成機能を認めるとすれば、たとえ法的には敗訴であっても、裁判所の判決が政治部門に対する「事実上」のインパクトになればよいわけである。本件で言えば、判決を受けて、政府がイラクからの撤退を「政治的」に検討せざるをえなくなることがインパクトということになる。

高裁の傍論での違憲判断を最終的なものとして確定させることに、「法的」には何ら意味がない。にもかかわらず、原告が「画期的判断」と喜んでいるのは、裁判所に憲法違反を認めさせるという政策形成において重要な目的をひとつ達成したからである。

id:krhghs:20080418は、「『司法を自分たちの政治的主張のために利用している』と批判されたくないならば、正々堂々と上告し最高裁に判断を求めるべきだ」と述べている。しかし、原告らにしてみれば、「我々は最初から司法を自分たちの政治的主張のために利用しているけど、それが何か?」ということになるわけである。

したがって、問題は、裁判所の機能として、権利保護機能と紛争解決機能を超えて、政策形成機能を認めるべきなのか否かである。そんなのは裁判所の役割ではないという議論がある一方で、現実に上に述べたハンセン病国賠事件等で裁判所が果たした役割に鑑みれば、もはや政策形成機能は否定することはできないかもしれない。

今回の名古屋高裁判決も、後者の考え方に立つものであろう。つまり、傍論での違憲判断が持つ政治的インパクトを見越した判決ということになる。だが、民主的に選挙されたわけでもない裁判官がどうしてそのような政治的機能を行使し得るのかという疑問は拭えない。