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勉強したることども

Backlog World 2024 に行ってきました

JR/横浜市営地下鉄桜木町駅方面からパシフィコ横浜のエントランスをくぐるところ。今回の会場の建屋「ノース」はこの遥か左手。Backlog 目当てにすごい人出だな、と思ったらほとんどは「展示ホール」で同日開催の文具女子博2024のお客さんだった

きょうは表題のイベントに出かけてきました。

jbuginfo.backlog.com

出かけた動機

ここ数ヶ月担当チームのタスク可視化手法を調整しているところで、打ち手の引き出しを増やしたいと思っていたところちょうど近所で Backlog のカンファレンスが開かれるときいて。

JBUG (Japan Backlog User Group) の存在はなんとなく知っていたものの、関連の催しに参加するのは今回が初めてでした。ちなみに Backlog を初めて触ったのは2013年、その後数年のブランク(その間は Redmine がお友だちだった)ののちまた触るようになりましたが、近ごろ周囲は Google Docs(タスクはスプレッドシート、議事録はドキュメント)派と Notion (DB 自作)派に二分されており Backlog はどちらからも不人気な状況です。やっぱり時代はモードレス UI なのか…その点 Backlog のドキュメント機能にはぜひがんばっていただきたい…。

気になったセッションたち

チームを楽に、プロジェクトを早く進めるためのBacklog

誰がどう見てもそうとしか受け取れない文書術でつとに知られるサービシンク名村さんの講演。あの「文章術」は Backlog 運用の知見から生まれたものだった。

  • Backlog を使いたくない人。運用は楽ではない。未来に苦労をしたいなら、いま楽をするのもいい。未来に苦労をしたくないなら、いま少しの苦労が必要。1年後にはきっと自分をほめたくなる
  • 自分も Backlog の使い始めはめんどうだった。Excel でいいんじゃないか、マネジメントの都合など現場の人間には知ったことではない、ドキュメントを書いている間に作業したい。しかし5年後には「使っておいてよかった」「使っていなければヤバいところだった」となった
  • 最初はめんどうだが1年運用を続けて、あらゆる情報を Backlog に集約する。「Backlog さえ探せばよい」状況に持ち込む。チャットやメールを探さない。探す時間は業務時間ではないと心得る
  • 探しやすくするには表記ゆれをなくす。独自用語を導入せず正式名称のみを用いる。雑なタイトルをつけない → 「文章術」へ

脱属人化!Backlogを活用したWebサイト制作のフロー整備プロジェクトの進め方

丸野美咲さん。業務フローの標準化のお話ということで、目下の自分の取り組みにも通ずるところの多いお話でした。標準化もそれ自体がプロジェクトだった。とするならば、自分の取り組みには完了の定義が欠けているのかもしれない、と反省。

「頭のいい人が話す前に考えていること」 〜プロジェクトで「信頼」を生む技術〜

なんか聞いたことあるフレーズだな、と思ったら同名書籍の著者である安達裕哉の講演でした。安達さんの出自は品質マネジメント・プロジェクトマネジメントのコンサルということで、表題書籍の内容も PMBOK に通じるところがあるようでした。タイトルからはなかなかわからないですが、プロジェクトマネジメントの本として読めるなら興味あるかもしれない。

  • ある人が「頭のいい人」であるかどうかは周囲の人が判断する。周囲の人にとって役に立つ人が「頭のいい人」。PMBOK でいうところの「感情的知性」
  • 信頼感の生じるところ
    • 相手の疑問・悩みに即答しない。いっしょに考える姿勢を見せる。信頼とはそれにかけた時間であり人間関係は効率化できない。PMBOK にもそれに通じる言及がある
    • あいまいな言葉を使わない。デロイトで「コミュニケーション」は使用禁止だった。言葉の定義に敏感になる
  • 「傾聴」とは単に熱心に聴くことではない。相手の話から自分の認識できた部分だけを切り取らず、相手の話を余さず理解すること。そのためには、相手が話しているとき次に自分が話すことを考えるひまはない。理解に全力を注ぐ

ことばをきちんと定義するという話は前段の名村さんの話にも通じますね。

リスクと不確実性に立ち向かう:マネージャーとチームメンバーが知るべき3つの原則

アジャイル関連のイベントでもお見かけする蜂須賀 大貴さん。プロジェクトマネジャーはまず今のプロジェクトのシナリオを10プラン用意せよ。メンバーはまず今のプロジェクトやタスクの道のりを言語化してみよ。

www.docswell.com

この「道のりの言語化」をメンバーに促すことが、まさにいま自分のやっている仕事なのでした(そしてそのための施策にネタ切れ感が出ていた)。そしてマネジャーたる自分が10プラン用意できていたかというとまだまだ修行が足りなかった。

そしてこのあたりで、名村さん・安達さん・蜂須賀さんの流れから、プロジェクトマネジメントって実は言語をマネジメントすることだったりして、とか考えだす。

ゴールドスポンサーセッション③「JetBrains IDEとBacklog連携」

サムライズムの山本さん。「JetBrains のことはご存じない方も多いと思いますが」という導入に、ああそうだここはエンジニアリングのカンファレンスじゃなかったんだ、と衝撃を受ける。PhpStorm には10年お世話になってます…!

当日発表のサムライズム製 Backlog 連携プラグインのデモを披露。これはちょっと試してみたいかも…社内で Backlog の優位性が一段上がるかもしれない。

samuraism.com

Backlog日報で広がる輪!つながるチーム、変わる職場

河野千里さん。Backlog は感情に作用するプロジェクト管理ツールだった。「スター」機能がこんなにクリティカルなものだったとは知りませんでした…押したことなかったかもしれない。

speakerdeck.com

全体的な所感

いままで見てきたアジャイル開発関連のカンファレンスは、どちらかというと理論的基礎をしっかり固めた人たちが集っているという印象でした。グローバルな議論を追っているとか、古典的名著を読み込んでいるとかして、その結果自分の実践の背景がきちんと抽象化されているというか。それと比べると今回聴けた話の数々はいずれも現場の実践に寄っているところがあって、想像していたよりずいぶん泥臭いんだなと感じたのでした。

でもそれがよかった、というのはそっちのほうが現場に浸透させやすいからなんですよね。抽象化された理念に触発された状態で現場に施策を持ち込もうとすると、抽象的議論を共有していない他メンバーにはどうしても何がしたいのかわからない取り組みに見えてしまう。ここしばらくそれが原因で仕事上スベっている自覚があったので、なんというかいい薬でした。Good Project Award 2024 の講評でヌーラボ代表の橋本さんがたしかおっしゃっていた「だれにでも真似できるということは再現性が高いということ」というのはほんとそのとおりだと思います。肝に銘じます。

あとはサムライズム山本さんのセッションでもそうだったとおり、必ずしもエンジニア主体のコミュニティじゃないというのが新鮮で、近ごろネタ切れを感じていた自分にはいい気分転換になりました。自分の周囲では「Backlog は非エンジニアには難しい(から使ってくれとは言いづらい)」という評も一部見られるんですが、今回見た限りビジネスサイドとの越境運用もぜんぜん夢物語ではないなと励まされました。思うに難しかったのは Backlog の UI とかではなく、「プロジェクト管理ツールは何に使うものなのか」という文化というか文脈の共有だったのではないかしら。ただ Notion からビジネスサイドの関心を奪うには モードレス UI は必須だと思うので、繰り返しになりますがドキュメント機能には大いに期待しています…!

【ドイツ語】ジェンダー中立な文章を書くためのオンライン辞書 gender app

最近、ドイツ語の Gendern についての記事をいくつか書いていた。その最中の調べもので表題のオンライン辞書を見つけたのでメモ。

genderapp.org

気になる名詞を入力すると、それに対応するジェンダー中立な単数形・複数形の例が出てくる。たとえば musiker (音楽家、ミュージシャン)で試してみるとこんな感じ。

登録ユーザーの提案した言い換え例がずらずら出てくる。 Kreativeschaffende よりも Musilkreative のほうが「音楽」に限定している感じがしていいんじゃないか、などと思ったときは、登録ユーザーなら左側の矢印で順位を上げられるようだ。

各項目の下部に、言い換えを提案したユーザーが表示されている。クリックすると、当該ユーザーの投稿が一覧される。たとえば blau 氏のページ

gender app 自身が用意している言い換え例には、他と違ったスタイルが適用されている。

ユーザー登録すると、言い換え例の投稿・投票のほか Web ページの全文チェックも使えるようになるようだ。

Dein Passwort sollte 6 Zeichen, mindestens eine Zahl und einen Buchstaben beinhalten.

パスワードは6文字以上で、数字と記号を1文字以上含めてください。

パスワード6文字というフォームは今日日なかなか見かけない気がする。というか、いくらなんでも短すぎます…十分長いパスワードなら、記号などを含めるよう強制する必要はないというのが最近の通説です…。

xtech.nikkei.com

話がそれた。あとは Office アドイン版も提供されている。

www.youtube.com

運営情報

About ページから運営情報をいくつか拾っておく。

Abteilung Gleichstellung von Frauen und Männern, Präsidialdepartement des Kantons Basel-Stadt

バーゼル=シュタット準州政府男女平等局

Die Abteilung Gleichstellung von Frauen und Männern unseres Heimatskantons sieht in gender app ein sinnvolles Werkzeug, um niederschwellig auf mehr (sprachliche) Gleichstellung hinzuarbeiten und steht uns beratend zur Seite.

我々の故郷の州の男女平等局は、gender app を(言語的な)平等に向けての取り組みの敷居を下げるための有用なツールであると考えており、我々のアドバイザーとなっています。

スイス発のツールだった。

geschicktgendern.de

Johanna Usinger, die Betreiberin von geschicktgendern.de hat uns einen Dump Ihres Datensatzes ohne Gegenleistung zur Verfügung gestellt.

geschicktgendern.de の運営者である Johanna Usinger は我々に無償でデータセットのダンプを使用させてくれました。

多くの置き換え例はここが出典となっている。

ParZu - The Zurich Dependency Parser for German

ParZu - チューリヒ(訳注:チューリヒ大学)のドイツ語依存構造解析器

Rico Sennrich, der Entwickler des Grammatik-Parsers, hat uns den Quellcode ohne Gegenleistung zur Verfügung gestellt. Mit ParZus Hilfe wissen wir, welche grammatikalischen Eigenschaften die Wörter in deinen Sätzen haben. Diese Information hilft uns später, die Alternativen im Office Add-in und im gender app translate korrekt zu flektieren.

構文解析器の開発者 Rico Sennrich は我々に無償でソースコードを使用させてくれました。ParZu を使うことで、どのような構文的特性をあなたの文章の中の単語が持っているかがわかります。この情報は、言い換えの単語を Office アドインや gender app 翻訳で正しく屈折させるのに役立っています。

ParZu のデモページに適当なドイツ語の文を打ち込んで "SEND" すると、これが何をするものなのかなんとなく雰囲気がわかる。

Die Liste wäre zu lange, explizit wollen wir aber der Vue.js- und Django-Community und Stackoverflow danken.

リストにすると長くなってしまいますが、特に Vue.jsDjango のコミュニティ、そして Stackoverflow に感謝します。

Vue と Django でできていた。

男性の声ですか?女性の声ですか?

最後に、ジェンダー中立な言葉の簡単な手引きもついているので見ておく。

Hier ein kleines Experiment: Lies folgende Sätze laut für dich vor und achte darauf, was für ein Bild entsteht.

"Die Polizisten umzingelten die Bankräuber."

"Die neue Modelinie findet reissenden Absatz, berichteten die Verkäuferinnen."

"Die Lehrer versammelten sich auf dem Pausenplatz."

"Mehreren Studenten wurde eine Urkunde verliehen."

"Die Ärzte wollen mehr Schwangerschaftsurlaub."

Wie Du vermutlich gemerkt hast, beeinflusst Sprache ganz direkt, ob Du eher an Männer- oder Frauengruppen denkst, wenn Du die Sätze liest. Da kann noch lange argumentiert werden, dass beim Gebrauch des generischen Maskulinums auch Frauen mitgemeint sind. Experimente zeigen etwas anderes (Heise, E., 2000).

まとめて私訳。

ここでちょっと実験:以下の文を音読して、どんな光景が思い浮かんでくるか注目してください。

「警官たちは銀行強盗たちを包囲した」

「ファッションの新ラインは飛ぶように売れていると販売員たちは報告した」

教員らが校庭に集まった」

「何人かの生徒らが賞状を授与された」

医師らは産休を増やしたいと考えている」

おそらくお気づきのとおり、文を読むとき男性のグループ・女性のグループのどちらを思い浮かべるかに言語は直接影響を及ぼします。長い間、総称的男性形の使用においては女性も含意されているとの主張がなされてはいます。実験からはそうでないことがわかっています。

gender app の作者らの想定はおそらく、「販売員たち die Verkäuferinnen」だけが女性複数なので女性のグループ、あとの「銀行強盗たち die Bankräuber」「教員ら Die Lehrer」「生徒ら Studenten」「医師ら Ärzte」が男性複数(総称的男性形)なので男性のグループを思い浮かべているのが「正解」。(加えていうと、あとの4つでは男性・女性・男女混合いずれも連想されうるというのが伝統的立場。)日本語に置き換えると、さてどうだろうか?

ところで、言葉におけるジェンダー上の偏見は文法上の性がなくても生じることについて、現代の日本人にはわりと心当たりがあるのではと思う。文法性と社会的要因では、どちらが偏見の要因としてより強いんだろう。

www.youtube.com

【ドイツ語】男女複数の併記を省力化した例

ドイツ語で人の集合を指すとき、男女の区別を避けるため Professorinnen und Professor のように女性を指す複数形と男性を指す複数形とを並べて書くことがある…という話を先日書いた。

heartyfluid.hatenablog.com

これに関連して、さらに人の集合が複数あるとき不思議なことが起こっている例を見つけた。

www.derstandard.at

オーストリア各地の大学で経営難から閉店する学生食堂が増えているという話。そんな中に次のようなくだりがある。太字は筆者。

Externen Gästen, Professorinnen und sonstigen Uni-Mitarbeitern wird in Relation zu Studierenden etwa der doppelte Preis verrechnet.

学外からの客、教員やその他の大学職員らには学生と比べておよそ倍の金額が請求される。

太字にした Professorinnen und sonstigen Uni-Mitarbeitern は、見たままに訳すと「女性の大学教授らとその他の男性大学職員らには」となる。しかし文脈からすると、おそらくここで言いたいのはそうではなく、「(男女問わず)大学教授らと(男女問わず)その他の大学職員らには」ととらえたほうが自然に思われる。つまりこれは、 (Professorinnen und Professoren) und sonstigen (Uni-Mitarbeiterinnen und Uni-Mitarbeitern) と本来なら複数形を4つ並べるべきところ、女性複数 Professorinnen と男性複数 Uni-Mitarbeitern の2つに代表させているのではなかろうか。

うまいこと考えるなあ、と思うと同時に、これ列挙する対象が3つ以上(つまり列挙すべき複数形が6つ以上)になったらどうするんだろうか。たまたま Gästen が対象の性に限らず同形の単語だからよかったものの。

ラテン語の形容詞 malus 「悪い」の原級・比較級・最上級もそれぞれ英語で別の単語になった話

heartyfluid.hatenablog.com

上記記事の続き。ラテン語の形容詞「よい」の原級・比較級・最上級 bonus - melior - optimus がそれぞれ英語で別の単語に派生したのと同じ状況が「悪い」のほうにもみられる。

  • 原級 malus
  • 比較級 pēior
  • 最上級 pessimus

原級 malus → 英語 mal- / malice

原級 malus は英語で「悪い」「不完全な」を表す接頭辞 mal- (male-) になり、さまざま語を形成した。KDEE こと英語語源辞典によれば以下のとおり。

♦ ME mal(e)- ▭ (O)F mal-mal (adv.) // L male-male badly, ill ↼ malus bad

ラテン語から直接英語に入ったか、フランス語を経由して英語に入ったかあいまいなパターンか。続けていわく。

♢ ME において、OF 借入語に、主として副詞接頭語として、動詞、動作名詞、形容詞とともに用いられた。16Cからこれら借入語にならい、英語内の造語にも広くみられるようになった。

最初は借用語にたまたまついていた接頭辞だったのが、のち英語の造語にも使われる接頭辞になった、と。たしかに接頭辞だけ借りるより自然な感じがする。

また malus は英語 malice 「悪意」の語源にもなっている。初出は1300年ごろ。

比較級 pēior → 英語 pejorate

比較級 pēior は英語 pejorative 「軽蔑的な」になった。

♦ ▭ F péjoratif, -ive ↼ LL pējōrātus (p.p.) ↼ pējōrāte to make or grow worse ↼ pēior worse

また名詞形 pejoration はとくに言語学用語となっており、日本語では「語義堕落」という。

mainichi-nonbiri.com

もともと指示対象を肯定的に評価していた語が否定的な評価を表すようになる意味変化を語義堕落(pejoration)と言います。[...]

かつて目上の者に敬意を示す意味を持っていた「貴様」は、現代では相手を罵る語として用いられるようになっています。これも語義堕落の例です。(→敬意低減の法則)

pejoration の対義語が amelioration というのは、その語源がわかっているとしっくりくる。

もともと指示対象を否定的に評価していた語が肯定的な評価を表すようになる意味変化を語義向上(amelioration)と言います。[...]

(19) くそ面白いコンサートだった。

ところで bonus にせよ malus にせよ、原級・最上級と比べて比較級を借りたときに一段難しい単語に化けるのがおもしろい。

最上級 pessimus → 英語 pessimism

ラテン語 pessimus はフランス語 pessimisme を経て英語 pessimism になった。初出は1794で当初は「最悪の状態」の意味だった。「悲観論」の意味での初出は1815年とのこと。

ドイツ語の Gendern についてまとめ。あるいは私はいかにして「有標性」なる概念と出会ったか(5)言語学者 Gendern を批判する

Gendern をめぐってベルリンで訴訟があり、裁判所は Gendern 教育に抗議する保護者の訴えを退けた、というのが前回の話だった。

heartyfluid.hatenablog.com

この出来事をめぐってドイツの言語学者ペーター・アイゼンベルクベルリン新聞のインタビューに答えている。ドイツ語の先生からきいた話では、ドイツ語学の世界ではかなり高名な人物なのだという。

www.berliner-zeitung.de

アイゼンベルクはまず、学校当局がいっぽうで教員らに正書法の順守を求めつつ、他方では正書法にない Gendern について自由に任せていたことを矛盾として批判している。

Aber wenn es heißt, der Unterricht sei auf die amtliche Rechtschreibung gegründet, Unterrichtsmaterialien jedoch Gendersprache verwenden dürfen, muss man sich fragen, welchen Sinn eine amtliche Regelung noch hat.

しかし、授業は公的な正書法に基づいているが教材は Gendern してよいとなれば、公的な規則にどういう意味があるのか問われざるをえない。

続けて。

Leibnizrde sagen: Es gibt keine Welt, in der beides gleichzeitig wahr sein kann.

ライプニッツならこう言うだろう:両方が同時に真でありうるような世界は存在しない。

話は少しそれるけれど、ドイツが誇る哲学者ゴットフリート・ライプニッツは、矛盾(「A は真である」ことと「A の逆は真である」が同時に成り立つことはありえない)の原理を人間の思考(推論)の基本原理に据えていたのだという。たとえば『モナドジー』に次のようなくだりがある。引用は岩波文庫版『モナドロジー』から。

31 私たちの思考〔推論〕は、二つの大原理に基づいている。一つは矛盾の原理で、これによって私たちは、矛盾を含むものを偽と判断し、偽と反対なもの、もしくは偽と矛盾するものを真と判断する。

32 もう一つは十分な〔充足〕理由の原理で、これによって私たちは、なぜこうであってそれ以外ではないのかという十分な理由がなければ、いかなる事実も真であることもしくは存在することができず、いかなる命題〔言明〕も真実であることはできない、と考える。ただしそうした理由は、ほとんどの場合、私たちには知ることができない。

むかし哲学の講義をとったときのノートを見返すと、「ライプニッツは<可能性>の定義を<矛盾がないこと>としていた」と書きつけてあった。それだけ矛盾の原理を重んじていたライプニッツなら、2つの異なる記法が同時に正しいと教育されることはありえないと批判しただろう…とアイゼンベルクは考えたようだ。

もう1点、Gendersternchen をまともに考えると記法が複雑になってしまうこと、また判決がジェンダー中立の理念にのみ着目し記法の問題について検討していないことを指摘している。

Nehmen wir eine Form wie Lehrer*innen, also eine Pluralform. Ihr Singular ist Lehrer*in. Und nun setzen sie mal im Singular einen Artikel davor. Sie erhalten etwas wie der/die Lehrer*in – damit wird alles unklar und kompliziert, denken Sie nur einmal an den Genitiv des Lehrers/der Lehrer*in.

Lehrer*innen のような形、すなわち複数形を例にとる。その単数形は Lehrer*in である。そしてその単数形の前に冠詞を置いてみよう。それは der/die Lehrer*in のようになる。―これにより、すべてがわかりにくく複雑になる。der/die Lehrer*in の属格(2格)を考えてみよ。

Lehrer*innen が複数形とすれば、そこから複数形語尾 -(nen) を除けば単数になるわけだから単数形は Lehrer*in となる。元の複数形が男女両方を含めていたのだから、その単数形 Lehrer*in は男性名詞にも女性名詞にも使われうることになる。最後の2格はとても意地悪。

  • 男性 der Lehrer → 2格 des Lehrers (2格語尾 -s がつく)
  • 女性 die Lehrerin → 2格 der Lehrerin (無語尾)
  • ジェンダー中立 der/die Lehrer*in → 2格の語尾はどうすべき?

ジェンダー中立にこだわるあまり記法が複雑になっていないかという指摘はドイツ語学習者として切実に感じる。石井正人『現代ドイツ語文法便覧』には「ジェンダーフリーなドイツ語」という章があって、このシリーズ記事を書くにあたり間違いがないかしばしば参考にしているのだけれど難しくてすぐに混乱してしまう。そして「ジェンダーフリーなドイツ語」の章には今回取り上げたほかにもさまざまな記法が紹介されており、「これらを使いこなさないと politically incorrect のそしりを受けかねないのか…」とつらい気持ちになってくる。

Gendern を支持するような層は移民の受け入れに積極的な層とも重なると思うのだけど、Gendern が引き起こしているドイツ語の複雑化はいっぽうで移民受け入れ・統合のためのドイツ語教育にはむしろ負担を大きくする方向に働いてしまいかねない。板挟みの感がある。

終盤、さらに言語学者っぽくなっていく。なんか難しいので適宜パラグラフを分けながら読む。

Es gibt zwei Konzeptionen von geschlechtergerechter oder nicht diskriminierender Sprache. Es gibt zwei Konzeptionen von geschlechtergerechter oder nicht diskriminierender Sprache. Eine ist, alle relevanten Gruppen zu nennen. Und dann wird behauptet, der Genderstern leiste eben dies. Alle seien mitgemeint. Die linguistische Reaktion darauf ist ganz einfach: Der Genderstern bezeichnet nichts. Er ist ein sprachfremdes Symbol ohne Inhalt.

ジェンダー平等な、すなわち差別的でない言語としては2つの発想がある。ひとつは、すべてのものが関係するグループを設けることである。そして Genderstern (訳注:Lehrer*innen のアスタリスク)がそうであると主張されている。すべてがそこに含まれているのだという(訳注:アスタリスクは男性・女性だけでなくそれ以外のあらゆるセクシャルマイノリティを意味的に含むと主張される)。これに対する言語学の応答はごく単純である:Genderstern はなんの意味も持たない。それは無内容な非言語的シンボルなのだ。

Das andere Konzept, sprachliche Diskriminierung zu vermeiden, besteht in der Verwendung von Ausdrücken, die kein grammatisches Geschlecht haben und deshalb auch nicht an ein bestimmtes natürliches Geschlecht gebunden sind. [...] Und die einzige Möglichkeit, die das Deutsche hat, Substantive zu verwenden, die strukturell nicht geschlechtsgebunden sind, ist das generische Maskulinum. Das ist die unmarkierte Genuskategorie, die ohne das Merkmal Geschlecht verwendbar ist.

言葉での差別を避けるためのもうひとつの発想は、文法上の性を持たず、それゆえ特定の生物学上の性にも結び付けられることのない表現を用いることにある。[...] そして、構造的に性と関連しない名詞を使用するための唯一の可能性が、総称的男性形である。これは性素性なしに使用可能な無標の性範疇である。

unmarkierte 「無標の」 Genuskategorie 「性範疇」 Merkmal 「素性(そせい)」などは言語学の専門用語だと思う。インタビューが載ったベルリン新聞の読者はみんなこういうのを知ってるんだろうか…わたしにはわからない。

ともあれ、これが言語学のいう有標・無標の概念に出会った最初だった。下記放送で「有標化」というキーワードが出た際にそのことを思い出したんですよね、という話をオフ会で堀田先生にした…というのがシリーズ第1回の話。

英語 subtract を substract と間違えるのは語源的にはけっこう由緒正しかったかもしれない

英語 subtract (引き算する)を substract だと思い込んでいた、という人の話をきくことがあった。いわく、「サブトラクト」よりも「サブストラクト」のほうが発音しやすい、とも。

substract は古語らしい、とも話していた。おそらく Weblio の下記記事を見たものと思われる。

ejje.weblio.jp

そうなると subtract と substract 両者の語源が気になるな、ということで KDEE こと英語語源辞典を引いてみた。substract は立項されていないが、代わりに substractor 「中傷者」というのがあった。すでに廃語で、シェイクスピア十二夜』(1601-2)に出てくるという。語源の記述は次のとおり。

◆ † substract to withdraw, take away, belittle (↼ L substractus (p.p.) ↼ substrahere (変形) ↼ subtrahere 'to SUBTRACT') + -OR2

英語に subtract と substract があった(?)ように、ラテン語にも subtrahere と substrahere があったのか。

subtract のほうも引いてみると、やはり同じくラテン語 subtrahere から来ている。こちらは substrahere を経由せず直接英語に入った。(初出は1533年とのことで、 substractor より少し早い。)

これらのことを思うと、冒頭に書いた「サブトラクト」よりも「サブストラクト」のほうが発音しやすいという主張ももっともな感じがする。なんのことはない、われわれ日本語話者だけでなくラテン語話者も同じように言い換え(言い間違え?)ていたのだった。

ちなみに subtract のほうをもう少し読み進めると、名詞形 subtraction の初出は1400年ごろと subtract より早い。そしてこの記述。

◇ subtraction からの逆成とする説もある.

ちょうどきのう記事にした meliorate - melioration と同じパターンだ。こういうの、ほかにもけっこうあるのかな。

heartyfluid.hatenablog.com

ラテン語の形容詞 bonus 「よい」の原級・比較級・最上級がそれぞれ英語で別の単語になった話

中山恒夫『標準ラテン文法』のセクション44「形容詞の比較」に、原級・比較級・最上級の変化が不規則な形容詞の例として bonus 「よい」が出てきた。

  • 原級 bonus
  • 比較級 melior
  • 最上級 optimus

補充法まる出し、みたいななりをしている(裏をとってはいないけれど)。

この3つの語形は、それぞれ異なる意味で英語に借りられている…とラテン語の講義で教わった。おもしろいので裏をとっておく。

原級 bonus → 英語 bonus

原級 bonus は見てのとおり、英語 bonus 「賞与」になった。KDEE こと英語語源辞典を引くと初出は1773年。続けて意味深なことが書いてあった。

◇ 本来の L bonum good thing の代わりに戯言的に用いたものか.

いわれてみれば。賞与は人でなくものなのだから、それを指して「よいもの」というなら男性 bonus よりも中性 bonum が借用されるほうが自然だったということか。「戯言的」というのは、男性 bonus を使うことで何か擬人化したようなニュアンスが出たりするのか?

比較級 melior → 英語 ameliorate

ラテン語 bonus の比較級 melior は、「賞与」とは一見関係なさそうな英語 ameliorate (改善する)の語源となった…と講義では習ったのだけれど、 KDEE を引くとなんだか複雑なことが書いてあった。まず ameliorate の項には次のようにある。

(変形)↼ MELIORATE

じゃあ接頭辞 a- のない meliorate というのが先にあったのか、と meliorate も KDEE で引いてみる。ameliorate の初出が1767年に対して、 meliorate は1552年以前とあるのでやはりこちらが先。そして、ラテン語の時点ですでに形容詞の比較級 melior から動詞 meliōrāre 「改善する」が派生していたようだ。さらに meliorate の項にはこんなことも書いてある。

◇ または melioration からの逆成か.

KDEE にある初出年代の順に並べると、以下のとおり。

  • melioration 1400以前
  • meliorate 1552以前
  • amelioration 1659
  • ameliorate 1767

これだけ見ると、名詞がラテン語から英語に入り英語の中で動詞形がふたたび生まれたという逆成説をとったほうがむしろ自然なんじゃないかと感じる。そうしていないのはなぜなんだろうか。気になるけれど、わからない。

最上級 optimus → 英語 optimism / optimize

英語 optimism 「楽観主義」の初出は1759年で、フランス語 optimisme を経由している。そのあとラテン語から直接借りる形で生じた optimize 「楽観する」の初出は1844年。「最大限活用する」などの語義はもう少しあとで1857年初出とのこと。