人間とウェブの未来

「ウェブの歴史は人類の歴史の繰り返し」という観点から色々勉強しています。

コロナ禍で自分の能動的行動が失われて気付いたこと

今週は夏休みなのですが、久々にコロナ禍の1年半を通して自分が色々考えたことをつらつらと書いてみようと思います。

コロナ禍になって最初の半年ぐらい、2020年の夏頃まではある程度これまで通り自分の研究を続けたり、毎日研究のコードを書いたりできていました。もちろん、自分は研究者であるので、ある程度裁量がある一方で、自ら能動的に新しい研究を続けることが仕事でもあるからです。その辺りはもう一つのブログを日誌にしているので今見てもよくわかります。

ところがその辺りから、どうもこれまで当たり前にやり続けてきたことに対して手が動かなくなってきました。これまで、研究をしたりコードを書くことは楽しくて、何のためにと考える前に、国際会議が次々ときたり、国内のアカデミアの活動が波のように押し寄せるので、それに乗り続けられるように自然と行動し続けていました。しかし、コロナ禍でその波がそもそも来なくなってしまいました。まるでぼんやりと座って海岸で海を眺めているような状態です。また、このブログも1年近く更新が滞っていたこともその現状をよく示しています。

今思うとやはり、そういう環境や各種イベント、成果などが、研究やプログラミングのように時には苦しかったり大変な作業を、その後には必ず刺激的でやって良かったと思えることが起こることを体験的に理解しながらやれていたのだと思います。だから、もはやその行動に対する動機などを考えることなくやれていたのでした。今更ながら、自分は環境に生かされており、僕がよくブログなどで書いていう「最終自分のために行動すべき」という点について、真の意味で自分のためには動けていなかったのだと思わされました。

そしてコロナ禍が続く中で、徐々に自分が当たり前のようにやってきた活動の後に生じるはずの「やってよかった」と思える体験が来ないだろうと思えるようになってきたのだと思います。それにより、自分が今はできない難しいことだけれど、できるようになればさらに面白く幸せになる、という体験の連鎖が断ち切られ、これをやったところで自分にとって幸せは来ないかもしれない、心身を削るのがしんどい、と無意識のうちに思うようになったのだと思います。

そうすると、能動的に動こうとする活動が減り、それが減れば減るほどさらに能動的に動こうと思えなくなり、受け身な仕事をするばかりになっていきました。それはそれで、能動的に動ける人のサポートをできて、そこで結果が出れば嬉しいのですが、常に自分はやれていないという気持ちになっていきます。

能動的に動くというのは、少しでも動き出せたらある程度動けるという脳の性質があることは理解しているのですが、その先に何があるかがあまりにも制限され、見通しがないと少しだけでも動くというこもがとても困難であることにも気付きました。全く面白くないゲームを無理にやらないといけないというような感覚に近いかもしれません。

ここ10年以上、能動的に動けないことはほとんどなかったのですが、実はその能動性の正体は、自分の周りの人々や環境、コミュニティ、会社、ひいては社会などと、知らず知らずのうちに相互作用によって生み出されているものであり、決して自分が1人で能動的に動けていたわけではないということでした。コロナ禍で環境からの作用の機会が明らかに減ったことにより、自分がこれまで能動的だと認識してとってきた行動を起こすための相互作用も減り、その結果、能動的行動がとれなくなっていたと理解しました。それを再認識できたのは不幸中の幸いでした。今思うと当たり前のことのようにも思えます。


さて、このようなダークな話で終わらせるのは悲しいので、最近はどうか、それを乗り越えられているかについても述べようと思います。正直、現時点では新しい価値を自ら生み出し続けなければいけない研究者として、まだまだ能動的に動けてはいないです。

一方で、受動的に動くことをきっかけに、非連続的ではありますが少しずつ能動的に動けるようになってきたこともあります。それはどのようにしているかというと、答えは単純で、受動的に仕事を受ける機会を増やしているからです。新卒の時に何かチャンスがあった時に自分でとにかく手を上げていたことを思い出しました。これが初心に返るということなのでしょうか。

例えば、社内外で頼まれる仕事に対して協力したいと思えるのなら、対価を考える前に真剣に協力をするようにしたり、限られた時間の中で、自分の価値を最大限提供できるように真剣に親身になって考えてお話しする、ということを続けています。すると、時には能動的により良いものを生み出したり提供できたりすることもあり、それが少しずつ良い方向に進む中で、刺激が生まれることも増えてきました。

受動的な行動によるきっかけの中で、能動的に自然と動ける機会を増やすこと、それができる環境を構築していくことが、自分にとっての行動のあり方と環境との関係性として、新しく理解できたことでした。それが、かつての能動的行動を生み出します。これまでは、受動的に仕事を受けることばかりは良くないと考えてさえいたのですが、それに対してプロセスの中で能動的に動き、各種タイミングでより良い成果を出し、それを後押しできる環境を同時に作っていき、相互作用を発生させることもまた、必要なことだと理解できたのも良かったです。

例えば、受動的に受けた研究に関わる技術顧問の中で能動的に事業立ち上げに行動し、その中でチームの体制を整えつつも新しい仲間を自分の身近なところから誘って協力することで、少しずつ自分達らしい行動ができる環境や関係性ができ始めています。自分が属する研究所の中でも、コロナ禍やアフターコロナにおいて自分のような状況になる研究者が増えないように、そういった環境に個人が押し上げられ、その個人がさらに環境を底上げできるような体制を新たに設計し始めています。

このように、コロナ禍で今までのような大きな波に自然と乗り続けるようなことはできていませんし、そもそも自分と環境との相互作用の機会が大幅に減っていることは、今のご時世否めません。それもあって新たな価値観や考え方、これまで気づかなかった行動や環境のあり方などを考えさせられる機会になりました。そして何より、自分は周りに生かされているのだと。

そういう意味でも、その環境をあえて自分達で作り上げていくことが多くの活気あるエンジニアや研究者を生み出し、相互作用によって更なる良い環境へと昇華されていくことを思うと、今は受動的な活動のなかで能動的行動を見出している時期ではありますが、そういう環境作りに注力することはこれからの自分のキャリアにとても必要なことなのだと腑に落ちたのでした。

できれば、そういうことを色々な人と、このコロナ禍であるからこそ少しずつ形作っていけると良いなと思います。


編集後記: 2021/08/18 22:15

色々コメントを読みながら改めて考えて、さらに言語化できたことをツイートしていたので、それをメモがてらここにも貼り付けます。

https://twitter.com/matsumotory/status/1427975605312659459 のスレッド

やりたい事は、やる事によって生じる環境からの相互作用も込みで構成されているわけで、その環境の要素がコロナ禍で急激に変わってしまったためにやりたい事もやれなくなってしまった、という話であって、コロナを言い訳にできるからやらない、という怠惰への正当化とは違う。やりたいんですよ。

でもそれがあまりに急激な変化であったことと、自分のやりたいことが環境からの相互作用も含めてやりたいと思えていたことに気づかないと、コロナ禍になってなぜかずっとやれてたり、やりたいことができなくなって漠然と苦しい、みたいな感情に落ちるのだと思う。自分がやるというのは、やりたいことややってきたことの構成の一部に過ぎない。

自分のやりたいことややってきたことが、自分の行動と環境からの相互作用で構成されている、と理解できれば、大きく変わったのは環境であるので、そこをこれまでの状態に戻すようなことを考えるのが良さそうだ、というように言語化できただけでも、久々にブログに書いて良かった。

あるいは、今の環境を前提に、その環境からの相互作用と自分の行動の中で改めてやりたいことややっていくことを再定義していくと、これまでの自分とのギャップに苦しんだりすることは減るかもしれない。いやまあ現状は急激な環境変化過ぎてその適応が難しいというのが課題なのだけどね。

コロナ禍でも特に変わらないという話も聞くことがあって、それはこの論理でいくと、自分のやりたい、やってきたことの環境からの相互作用が、コロナ禍での環境からのものと差分の少ない環境だったからと理解することができて、それは当然あると思うので、この手の話の論点はその辺りなのかなと思えた。