インターネットの備忘録

インターネット大好きな会社員がまじめにつける備忘録です。

自分の人生に飽きたくない

いろいろ読みました。というかこのへんの話題、観測するメンツが似てきているので、もっといろんな人の文章を読みたい。みんなどこで書いているの。

どうせ俺らは早く死ぬ - phaの日記

生きに生きて40歳、俺らは結構長く生きた - シロクマの屑籠

『自由』が『虚無』と化した先の人生の生きがいについて(あるいは個人主義と共同体主義の狭間で) - 自意識高い系男子

いくつか読んだ感想をメモしておくと、わたしたち40代は、10代の頃に思っていたより長く生きたのだなあと思う。思春期をぎりぎりいっぱい延長できるほどもう若くはないし、喪ってしまったものも、たくさんある。

なにかに熱狂するエネルギーであったり、好き/嫌いに対する爆発的な感情みたいなものが年々なだらかになっていき、まさに「人生の秋」のような、しんみりした味わいが出てきたなあと感じる。

とはいえ、その喪失感にはまだ「みずみずしさ」があり、自由を持て余せるほどの健康くらいは、手元に残っている状態なのだろう。

 

わたし自身も離婚→再婚→妊娠・出産を経て、人生がSeason2に入ったなと感じていたこともあったし、確かになにかフェーズが変わった実感もある。人によっては、もっとこの変化が大きくて、子どもを持つことで「自分の人生の主役から降り、子どもが主役の人生の脇役になった」と意識が変わった人もいるだろう。

子どもを持っていなくても、仕事や人との関わりの中で、自分がメインステージに立つ時期は過ぎたな、と思うことがある、という話もよく聞く。最前線でバリバリ働く程の気力も体力もないし、むしろ後方支援として後進の育成に興味を持ったり、経験を活かす方に面白みを感じ始めたり、20代に混ざって夜の街で遊ぶのに、やや居心地の悪さを感じるときはないだろうか。正直、わたしはある。

 

以前、書いたように「人生がループしてきている」と思うことも多々ある。

悩みも苦しみも、だんだん似てきている。10〜20代の頃に感じていたことをまだ悩んでいるし、結局は人間関係とお金と健康のことでしか、足を止めて悩むことがないような気がしているのだ。

自分の書くものに飽きている - インターネットの備忘録

それでもわたしは自分の人生に飽きないために、なにかあるんじゃないか、ともがいている。子どもを産んだって自分の人生の主役はわたしだし、メインステージじゃなくたって、立派に歌い踊れるんじゃないか。自分の役目を果たせるんじゃないか。そんなふうに思って、その「役目」を探し続けているような気がするのだ。

 

そして幸運なことに、その「役目」を与えてくれる仕事(会社)に出会えたことも、これに気づくきっかけになった。今までの経験を総動員してぶつからないと乗り越えられない課題に立ち向かえるのは、つらくもあるが、幸福だ。わたしのようなタイプは、手なりの生き方でいると、どうしても同じ場所をぐるぐる回っているだけのような気になるからなのだろうと思う。

そういう意味では、仕事という環境が常に新しい知恵の輪を与えてくれて、新しい問題を解き続けていることで、わたしはまだ自分の人生に飽きずに済んでいるかもしれない。

そう、わたしはまだ自分の人生に飽きたくない。

もうこれから新しいことにワクワクしないかもしれないし、ドキドキしたり、体温や心拍数がパッと上がって高揚するようなことには遭遇しないかもしれない。そんなふうに思いながら生きるには、思ったより人生って長いんじゃないか?思うほど簡単に寿命って来ないんじゃないか?と思うようになった。

 

不思議なのだが、そう思うのと同時に「死ぬこと」をとても身近に感じるようになり、明日死んじゃうとしたら、あれもこれもまだやってなかったな、やっておきたいな、と思うことが増えた。

身近な人で亡くなるのは年上ばかりだったのが、同世代や、ともすると年下がいなくなってしまうのもぽつりぽつりと増えてきた。Facebookで元同僚の訃報を知ることも少なくない。ああ、あんなにパワフルだった人でも、急に死んじゃうことってあるんだな、と実感するようになったからなのだろう。

 

だったらもうヤケクソでいろいろやってみるのもありかもしれない、と思っている。phaさんが紹介していたクリトリック・リスはわたしもずっと好きで、何度もライブに足を運んでいるが、そのスギムさんは1969年生まれ、52歳だ。

52歳のおっさんが、パンツ一丁でピコピコ音に合わせて歌い、踊り、それが誰かを感動させている。わたしも感動した中のひとりだけれど、誰かがヤケクソでも何かに全身でぶつかっている様子はなんとも言えないおかしさとカッコよさがあり、中年でないと出ない味わいだろう。

 

その様を感動する側にいくか、感動させる側にいくのか、どちらになれるかは分からないけれど、その感情のふるえは現実にあって、もしかしたらわたしにもできることかもしれない。そんなかすかな希望をもって、まだもう少し生きてみようと思っているのです。

今日はそんな感じです。

チャオ!