坂口恭平『自分の薬をつくる』を読む

 

坂口恭平。おれと同世代で、おれと同じ双極性障害(躁うつ病)を患っている。それだけで気になる存在である。それ以外に共通項はなにもないかもしれないけれど、病気の人間とはそういうものである。

坂口恭平は双極性障害を患っている。……と、書くと正確ではないかもしれない。もう、通院も服薬もしていないという。患っていた、が正しいかもしれない。おれはおれなりに双極性障害についていろいろ読んだりしているが、双極性障害は原因不明で完治できない病気であって、現状、一生、薬とともに落ち着かせて生きていくしかないとの認識だった。「治った」という話は聞かない。もし、そうだとしたら、とてもめずらしい話かもしれない。

ここではっきり言っておくが、おれは病気、障害、あるいは「症」、disease、disability、disorderの違いをはっきりと理解していない。

まあともかく、双極性障害を服薬なしに乗りこなしているというのはすごいことだと思う。

そしてもっとすごいと思うのは、「いのっちの電話」として、自分個人の携帯電話の番号を公開して(この本にも何度も出てくるし、ネットで検索したらすぐ出てくるだろう)、死のうと思ってしまった人の電話を受け続けていることである。これはなかなかできない。なかなかというか、ほとんどの人にはできない。すごい。

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これを10年やっている。尋常じゃない。

この尋常じゃない人が、医者と患者を模したワークショップを行った。その記録がこの本だ。

と、その前に、坂口恭平流の生活が「私の場合」として書かれていた。午前4時起床、午後9時就寝。すごい。毎日10枚書くこと。これを一番力のある朝に行うという。そして、午後3時から午後6時の間の太陽光は鬱になるので、カーテンを閉め切ってアトリエで絵を描くという。その習慣は後に変わるのだけれど、そこを見つけるあたりがすごい。

すごい、ばかり言っているが、おれなどは、毎晩酒を飲んでは早い時間にうとうとしたりして就寝がえらく遅くなったり、土日のたった2日あれば昼夜逆転してしまう(連休などあったらもう完全に)など、実にルーズというか、自堕落な人生を送っているので、ちょっと信じられない。同じ病気の人ができるのは信じられない。もちろん、同じ病気といっても、身体の強度やら脳の性能やら、人間としての資質が違うのだから違って当然だけれど、すごいなあと思うのだ。

で、そんな坂口さんが「いのっちの電話」で受ける話には、ある種の傾向があるという。

「好奇心がなくなった」

「関心がなくなった」

「興味がなくなった」

それって、まあ抑うつというか、うつ病の症状みたいな、というか。しかし、これが多いと、10年間、2万人の死にたい人の言葉を聞いてきた人間が言うのだから、そういうものだろう。

で、これがなんなのか。どうすればよいのか、ということについて、坂口さんはこう述べるのである。

 好奇心がないのは、外の情報をインプットしたくないからなんです。

 体は拒否しています。しかし、私自身は続けたいと思っているわけです。そこがズレてしまっているんですね。体はもうお腹いっぱいで食べなくてもいいと言っているのに、意識は満腹感みたいなものが壊れてしまっていて、胃が膨らんでいることに気づかず、どんどん口にしようとするわけです。そりゃ、入っていくはずがありません。

そんな状態が生き過ぎると、自分はもうだめだと思い、死にたくなってしまう。では、どうすればよいのか。アウトプット、だと著者は言う。そして、みな「アウトプットの方法を教わっていない」と言う。インプットの仕方は教わり、インプットされ、インプットの方法は溢れているのに、アウトプットの方法がわからない。だからいきづまる。

 アウトプットすること、これが「つくる」ことです。

なるほど、そういう面はあるのかもしれない。毎日の日課をつくる。それが自分にとってのアウトプットだという。

……と、ここで、おれはおれ自身について思うのである。おれにとっての日課とはなんだろうか。本当に毎日とは言えないけれど、ほとんど毎日こうやって日記を書きつけて、世の中に公開していることではないか。これは一応、アウトプットといえるのではないか。

そして、何人かの読者を得て、感想を書いて送ってくれる人もいるし、なかにはおれにお酒などを贈ってくれる人もいる。文章を書いたらお金をくれる人もいる。悪くない。なんだ、これがおれの薬か。よかった、よかった。おしまい。

……というわけにもいかないのだな。やはりおれは日々の賃労働にすり潰されそうになっているし、仕事をやめて暮らしていけるほどの稼ぎがあるわけでもない。頼れる家族もいない孤独の独身中年である。しかも手帳持ちの精神障害者ときたら、酒でも飲まなきゃやってられねえ。うーん。

というわけで、ページをめくる。坂口さんは「医師」になりたいという。ただし、ブラックジャックのような。上にリンクした記事では、精神科医の斎藤環さんからいのっちの電話の実績について、「通常の精神療法の活動とそんなにかわらないですよ」と言われている。

ニセ科学、ニセ医学には要注意だけれど、まあ、人が人に悩みを打ち明けてみて、その打ち明けてみること、言葉にすることになんらかの効用があればそれでいいし、そこでなにか晴れるところがあれば、それはそれでいい。機序も明確にわかっていない双極性障害のような病気に、なにか薬を飲んで脳の組成を変えるようなことなく済ませるなら、まあそっちのほうがいいだろう。おれはおれの精神のためにラツーダ(ルラシドン塩酸塩)を飲むけれど。

で、ワークショップで、医師と患者を「演じる」なかで、いろいろの悩みが打ち明けられ、処方箋が与えられていく。もちろん物質的な薬を出すわけにはいかない。「自分の薬」が処方される。

それはなにか。アウトプット。とはいえ、単に「創作活動をしましょう」というわけではない。そこがおもしろい。もちろん、なにかをつくって、自分(坂口さん)に送ってください、というのもある。が、なかにはやりたいことの「企画書をつくりましょう」というのがある。そのあたりがおもしろい。実践すると、疲れるから、企画書だけ綿密につくる。見積書を、つくる。そんな発想なかったな。「絶対に実行しない企画書」。

あるいは、夢を適当に考えてでもいいから捏造して、そうなったら自分がそう思ったと思って行動する。ただ、「自分の環境を一切変えない」。このあたり、うまくまとめられないので、実際に読んでいただきたい。

ともかく、自分のなかで「声になっていなかったものを声にする」これが肝要。

 精神科の病院では、その声を聞くというよりも、その人が、医師が知っている病気のどれに一番多く当てはまるかを予測し、それを元にその患者の病名を名づけていきます。もちろん、それによって、助かるという患者さんもいるとは思います。

 しかし、病名がつけられてしまうと同時に、患者さんの口に錠がかけられてしまうのではないかとも私は感じています。そうすると、その人の声にならない声が体の中で外に出ていくこともなく、ぐるぐると滞留してしまいます。それが毒素になってしまうのではないかと私も思っています。ちゃんと声にしたら、実はそれは病気でもなんでもない。

このあたり、本当に微妙な話だとは思う。精神疾患は脳のどっかがおかしくなっている化学的な問題であって、「声」で解決するばかりではない。それは、薬に頼っていると自覚している自分にはわかる。

一方で、そればかりではないな、とも思う。

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前にも書いたとおり、おれは月に一度の通院、五分診療であっても、「なんでも話せる」存在として主治医がいてくれることが救いになっている。もちろん、通院の主目的は処方箋なのだけれど、「今日はこれを言うぞ」と決めて、それを言う。言ったところで、たとえば経済的事情を医師が解決することはできない。できないけれど、言ったら言ったで楽になるところがある。おれはその効能を否定できない。馬鹿にできない。

というわけで、そこのところを本にしてくれている坂口恭平も否定できない、馬鹿にできない。言うことには一理も二理もある。そういうふうに思う。

あらためて言うが、標準的な精神医療からはちょっと外れているかもしれないし、これに傾倒するのは危険かもしれない。おれはおれなりにそれなりに長いあいだ精神疾患と付き合ってきたから、こういうことも「こういう考え方もありかもな」と思える。そうでない人は、やはりとりあえず精神科の予約をとって(初診の予約はたいへんかもしれない)、医師にあたってみるべきだろう。

その上で、たくさんの「いのっちの電話」を聞いてきた人間の言葉に耳を傾けよう。

 二万件の電話を一人で受けた、今のところの研究結果ですが、どれひとつとしてその人独自の悩みはありませんでした。結論はすべて、自分を否定している、ということでした。否定する理由は、人と比べて、自分が劣っているように感じるからです。でもこれはもうほとんどすべての人がしているのですから、人間の特徴、もしくは、日本という私たちが暮らしている社会の特徴なのかもしれません。とにかくこのことに気づいて欲しいです。

 みんな悩んでいるですから、もうそれは悩みではありませんよね。

このあたり、「ちょっと待て」と突っ込みを入れたくもなる。なるけれど、二万件の深刻な電話を受けてきた人間が言うのだから、そういう面もあるのかな、と思ってもいいかな、くらいには思う。このあたりは、実際に疑いつつこの本を読んでみて、どう思うかだろう。おれには、納得できるところもあった。

 すべては悩みではなく、滞っていること、そして、それは常にアウトプットされることを望んでいること。

 その発端となる縄は声によってつくられること。

 アウトプットは瞬間的なものでなく、長い時間日課を経て少しずつ外に出ていくということ。

このあたり、健康なあなた、病気のあなた、どう感じるだろうか。おれにはなにか思うところがあった。ちょっと気になったなら、とりあえず、眉に唾つけながら読んでみてもいいだろう。

 

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坂口さんの本は過去に一冊読んでいる。

 

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 神田橋條治は双極性障害に対して「気分屋的に生きれば、気分は安定する」という標語をあみ出した。達人の真似はしない方がよいかもしれぬが、心にとめおきたい言葉である。

坂口恭平は神田橋医師の影響を受けている。神田橋医師は「達人」であって、現代的医療からは異端なのかもしれない。診療を受けたわけでも、本を読んだわけでもないのでよくわからないが。

 

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大好きなくるりの一番新しいアルバムのジャケットは坂口恭平の絵である。岸田繁は坂口恭平の絵が大好きだということである。