54歳で「若年性アルツハイマー」になった東大教授が書き残していた「日記の中身」

家族も驚いたその内容とは
東京大学教授・若井晋。54歳のとき、彼は自分が漢字を思うように書けなくなっていることに気づく。それは、医師でもある晋が最も恐れていた「アルツハイマー病」の兆候だった。人並外れた頭脳で人生を切り開いてきた男が、職を、知識を、そして言葉を失うとき、本人は、そして家族はどうなるのか。教授に昇りつめるまでの人生を振り返りながら、絶望から再生へと至る道のりをたどる。

「単純な漢字がすぐに出て来ない」

〈2001年6月9日(土)深夜

漢字を相当忘れるようになったため日記をつけることにする。

単純な漢字がすぐに出て来ない。Dementiaか。下痢は大部(ママ)良くはなったが食事を沢山取るとお腹がふくれてくる。毎日3〜4回は大のためにトイレにゆく。〉

「Dementia(デメンシア)」とは認知症のことだ。いまから約12年前、大学ノートに書き付けた彼の日記はこんな記述から始まった。「単純」の「純」は、「託」の字の言偏を糸偏に替えた形になっていて下線が引かれている。正しいかどうか、確信がもてないまま書いたのだろう。

同じ日記の6月12日には次のように書いている。

〈やはり漢字の練習をしなければ。手からの刺 刺激 刺激刺激刺激……

下痢が改善しつつある。改善改善善善羊善善羊善……〉(原文ママ)

若井がつけていた日記の最初のページ(Photo by 小川光)
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「刺激」「改善」という字が思うように書けなかったのだろう。そのページいっぱいに、何度も刺激、刺激、改善、改善……と書き取りの練習がなされている。ページをめくると、今度は「愛」「疲労」などの文字の練習が繰り返されている。

その後も日記は断続的に書かれ、2001年の8月23日でプツリと途絶えている。

日記の主・若井晋(すすむ)は、当時54歳の東京大学教授だった。脳神経外科医としてキャリアをスタートさせた若井は、獨協医科大学の教授を経て、東大医学部の教授となった。東大では専門を一転させ、海外での医療援助を担う国際地域保健の専門家として世界を飛び回り、学生たちを鍛えた。

英語、ドイツ語、中国語に堪能で、執筆した原稿は、世界的に名を知られた学術誌に何度も掲載され、その功績は国際的に認められていた。東大在任中は世界五大医学雑誌の一つ、『英国医学会雑誌(British Medical Journal)』の編集委員まで務めている。

 

だが冒頭の日記を書いていた時点で、若井の脳はすでに認知症に冒されはじめていた。自らDementiaを疑いだしてから5年後の2006年、「若年性アルツハイマー病」の診断が確定する。

自身がアルツハイマー病だと知らされて以降の彼の心の葛藤は想像を絶する。なんといっても、当人は脳の専門家なのだ。日記に残る書き取り練習の跡は、こぼれ落ちていく自分の知性をなんとか掬(すく)い取ろうとする、必死の抵抗の跡だったのだ。

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