「推し」がいる人生は楽しい。応援したいイチオシの対象がいると、日常に彩りが加わる。推しと共に在れるこの世界を肯定できそうな気がする。購買やイベント参加を通じて、愛を形で示せるのは幸せだ。
——こうした気持ちに覚えがある読者も多いだろう。ただ、推しが研究者というのは、やや珍しいかもしれない。
筆者は、昼はコンサルタントとして仕事をし、夜は研究をする生活を送っている。ときどき情報法政策について論文を書く。論文が専門誌に載ることもある。研究の裾野くらいには位置していると思う。言ってみれば、研究者の「ファン」と「プレーヤー」の中間にいるような存在だ。
そんな筆者には、たくさんの「推し研究者」がいる。繰り返しになるが、推しがいる人生は楽しい。
「推し研究者」への憧れは力になる
研究者という存在にさしたる印象を持っていない人も多いかもしれない。しかし、研究者は、見る人が見れば、スターのように卓抜した存在だ。奇人変人もたくさんいる。生きざま自体も興味深く、推せるエピソードには事欠かない。
もちろん、研究自体の面白さが大きな魅力であることは言うまでもない。論文の緻密な構成、斬新な着眼点、知的興奮をもたらす論理展開。その端々に、研究者の個性や人生が反映されている。
研究者相互の関係性も魅力的だ。才気煥発な研究者たちの論争は、怪獣映画のような面白さがある。また、紙面で辛辣な応酬をする論敵同士が、実はカラオケ仲間だったりするのも味わい深い。知の探求を協働するに足ると好敵手を認める姿勢はまさに「友情・努力・勝利」の構図だ。
凡人を自称し、こつこつと積み重ねるタイプの研究者も素敵だ。尊敬する法学者の言葉を借りれば、「努力したことが全て光に変わる訳ではないが、努力の光は殊の外美しい。才能による光よりも時にはより美しい」。その尊すぎる光に触れると、浄化されて自分が砂となって消え去りそうな気持ちになる。
だから、推しの研究者が寄稿した専門誌を購読し、単著の刊行を待ちわびる。パジャマ・パーティで「あこがれの論文」について語り合ったりすることもある。
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週末に「ライブ会場」としての研究会に参加し、口頭発表を聴くのも楽しい。遠隔地で学会が開催される際は「遠征」もする。迷惑にならないよう気をつけながら、発表内容や論文の感想を、あこがれの研究者に直接伝え、意見交換する。ときには、他愛のない話を交わすこともある。同時代に生きる研究者は、筆者にとって「会いに行けるアイドル」だ。こうした活動が高じて、筆者は論文を書く機会を得ることになった。