日本のポピュラー・カルチャーが描く女性
マンガ、アニメが描く女性の姿は、それ自体で自立している存在で、現実の女性の反映ではない、だから女性差別というのはおかしい――パリで漫画に関する国際学会が開催された際、総括討論で一部の参加者からこうした立場が表明された。
日本のポピュラー・カルチャーが海外で人気を博し、それが海外の若者への日本文化や社会への関心に結びついている現象は、文化による国際交流としては喜ばしいことであり、日本の「ソフト・パワー」として高く評価されている。
ただし、かわいらしさや未熟な少女らしさを特徴にした姿が海外で主流化するのは、日本女性を性的対象とみなす古い「ゲイシャ」イメージの焼き直しになりかねないのではないか。
私の疑問に、男性参加者はむしろ批判的であったが、終了後、パリ在住の日本の女性傍聴者から、私もアニメやマンガの女性像には常々違和感を抱いてきたので、同感であると言われ、同意見の方もいらっしゃると、励まされたのであった。
アニメが描く女性像は現実の反映なのか、それとも現実とは無関係な独自の存在なのか――これは広い意味での認識論にゆきついてしまうため、その次元での立場が違えば議論は永遠に平行線である。
ただ、研究者や評論家、作り手側がいかに、バーチャルなキャラクターは現実の日本女性の反映ではないと主張しても、受け手側がそう認識するとは限らない。
目や髪の色、体型やファッションから、受け手が現実の日本女性を連想することは否定できないのであり、かわいい女性キャラクターに憬れて、コスプレをする外国人女性も少なくない。
送り手側の意思をこえ、現実の女性と表象された女性のイメージを重ねる受容があるのは厳然たる事実である。

遡ること19世紀の後半、日本が海外との本格的な外交、国際交流を開始した際、日本に来訪した海外の人々の滞在記や日本から流出した浮世絵から、華やかな衣装に身を包んだ接客業(今でいえば「おもてなし」)のプロとしての芸者や遊女の姿が、海外における日本女性のイメージとして知られるようになり、「フジヤマ・ゲイシャ」と言われる日本イメージのステレオタイプの形成に至る。
ゴッホやモネなどの絵画にも芸者や花魁の姿が描かれ、美術史上の「日本趣味」(ジャポニスム)として生産的な文化交流につながったのはよく知られている。
しかし、一方で、アジアの女性を美化するあまりに性的なまなざしの対象とし、脆弱な存在として欧米人よりも低い立場とする発想は、強い欧米と弱いアジアという「オリエンタリズム」の構図を示し、手放しで喜ぶわけにはゆかない。
現実に芸者として働く現代の日本女性たちにとっても、ことさらに「ゲイシャ」が性的なまなざしの対象になるのは不本意であろう。
日本のポピュラー・カルチャーで描かれる、“かわいい”女性像の海外への輸出は、日本の女性といえば、未熟で性的な存在というステレオタイプにつながりかねないという点で、いわば21世紀の「オリエンタリズム」に陥る危険性がある。