『君の名は。』が、感動のウラで消し去ってしまったもの

無邪気にこの作品を楽しむことへの疑問
(C)2016「君の名は。」製作委員会
*この記事は一部ネタバレを含みます。これから映画『君の名は。』を観る予定の方はご注意ください。

大ヒットの理由――交差する東京と地方

新海誠の映画『君の名は。』が、興行収入110億円を超える大ヒットを続けている。

東京に住む高校生の男の子と、地方に住む同じく高校生の女の子が寝ている間に入れ替わる「スコシ・フシギ」なかたちで出会い、互いの身体で世界を経験していくうちに、次第に運命の人として受け入れていく。

ヒットした要因のひとつには、そうした東京と地方の異なる若者の生活を、メリハリよく交差させ描いていたことがあるだろう。戦後ヒットした『君の名は』は、佐渡、東京、北海道を股にかけた一種のご当地映画としてあったが、今回の『君の名は。』も、都市と地方の生活をよく描く。

 

主人公の一人の男子高校生は新宿・代々木・千駄ヶ谷を中心とする東京で学校とバイトを中心とした都会生活を送り、もう一方の女子高生は岐阜県飛騨のどこかをモデルとした「糸守」という村で実家の神社を守りながら暮らしているのである。

ただし気になったのは、2つの場での生活の描き方にリアリティの差が感じられたことである。東京の街が、(いつもの新海誠の作品でのように)総武線沿線を中心に精緻に実在感をもって描かれていたのに対し、「糸守」は必ずしもそうはいえない。

もちろん「糸守」の風景も綿密に取材され、部分部分は実在のモデルをもつのだろう。

だが、それらが都合よく「編集」されることで、少なくとも、「地方都市」に暮らしたことのある者にとって「糸守」が、実在感の薄い街になっていることである。「地方都市」に暮らす人々は、イオンに赴き、ユニクロの服を着て、TSUTAYAに通う。

より山中のいわゆる中山間地域なら、そうした場所はあるかもしれない。しかし過疎化が進む村には、あれほどの子どもや若者はおらず、物語を支えるような青春群像はそもそも成立しにくい。

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