
日本に見放されてきた慟哭の歴史
1月28日、国交正常化60周年を記念してフィリピンを御訪問中の天皇、皇后両陛下が、フィリピンに在留している邦人と御接見された。その中に、両陛下を前に万感胸に迫る人々がいた。「フィリピン残留日本人」と称されている日系人連合会の関係者である。ある者は思わず、両陛下の姿を見て号泣したという。
その涙の背景に、戦後70年間も日本に見放されて来た慟哭の歴史があることをご存知だろうか。「フィリピン残留日本人」とは、戦前にフィリピンに移民として渡った日本人や旧日本軍の関係者がフィリピンで現地の女性と結婚してもうけた子供たち(2世)だ。
日本人の移民は、アジアだけでなく、ブラジルやペルーといった南米も含めて世界中にいると言っても過言ではないし、旧日本軍関係者の残した子供たちは、フィリピンに限らず中国やインドネシア等、アジア各地に存在する。しかし、フィリピンが他の地域と異なる点が一つだけある。それは、「無国籍」の状態で放置されている日系2世が多数いるということだ。その数は今なお約1200人にも及ぶと言われている。
ではなぜ、現代のフィリピンに、日本人の血を引く「無国籍」の人々がこれだけ多くいるのか。他国の「残留日本人」に比べて、あまりに知られていない「彼ら彼女ら」の歴史をたどってみたい。
もともとフィリピンは日本人にとって、最大の移民先の一つであった。1903年(明治36年)、当時フィリピンを植民地としていたアメリカによってルソン島北部にあるバギオが避暑地として開発されることになり、そこに至る「ベンゲット道路」(ケノンロード)の開発に従事するために、2000人以上にものぼる日本人が労働者として移住したのがその先駆けである。
道路完成後、彼らの多くは、マニラ麻(アバカ)の産地であるミンダナオ島ダバオをはじめとするフィリピン各地に分散、定住するようになる。1930年代後半には、日本移民は2万4000人にも達していたとされている。つまり、戦前の東南アジアで最大の日本人社会が、フィリピンにあったのだ。
当時のフィリピンには、外国人による土地所有の規制があったので、定住し土地を開墾しようという日本人はむしろ積極的に現地の女性と結婚し、フィリピン国籍の取得が進んだと言われている。
しかし、そうした在フィリピン日系人社会は、戦争の惨禍に巻き込まれていく。
1942年1月の日本軍フィリピン占領後、日本人移民の多くは徴兵されたり、軍属として採用されたりして、日本軍による統治に協力するようになる。抗日ゲリラ摘発等の「先兵」とならざるを得なかった日系人らに対する、現地社会からの敵視と憤怒の念が生まれたのは、その時である。