「美術」の近代化をすすめた男に隠された、壮絶な「人斬り」の旅……そのはてに目撃した究極の「美」
2024年12月18日に発売された青山文平さんの最新作『下垣内教授の江戸』。
直木賞作家が描く、日本美術の目利き「下垣内邦雄」の驚愕に満ちた生涯とは——。
今回は『下垣内教授の江戸』の魅力を、書評家の細谷正充さんに紹介していただきました。
東京美術学校の発足に携わり、帝国博物館でも要職を務めるなど、「日本美術」の目利きと称された下垣内邦雄が、関東大震災、金融恐慌、世界恐慌に襲われたあとの1931年、歴史の大きなうねりの中で亡くなった。思い起こされるのは、ある新聞記者による4年前の単独取材だった。美術に関する意図とおりの質問のあと、下垣内教授は自らの半生について語り始める。「俺は人を斬ろうとしたことがあるんだよ」。凡百の出世物語とは似ても似つかぬ、幕末活劇とはまったくちがう話に、記者はかっさらわれたのだった……。
江戸時代なのに「教授」?
青山文平の時代小説は、読者の意表を突く。話の行く先が分からず、予想外の展開に驚くことが多いからだ。だから、ある程度の覚悟を持って本書を手にしたが、いきなりタイトルから意表を突かれた。なにしろ『下垣内教授の江戸』である。「教授」ってどういうこと。もしかして現代を舞台にして、下垣内教授という人物が江戸時代を語るという、歴史読物なのかと思い、混乱してしまった。しかし本の帯を見ると、時代小説のようである。安堵して本を開いたら、いきなり昭和初期から物語が始まり、またもや意表を突かれた。
冒頭の視点人物は、守屋広臣という元新聞記者だ。昭和6年(1931)に会社を退職したが、その最後の日に彼は、ふたつの記事を執筆している。ひとつは警視庁が、活動写真常設館の男女席撤廃を決めたことについての記事。もうひとつが、年明け早々に亡くなった下垣内邦雄についての記事だ。東京美術学校発足に携わるとともにそこで長く教授を務め、帝室博物館の要職にも就いた人物である。表に立つことはなかったが「当代きっての日本美術の目利き」であり、明治以来の日本の美術行政の節目には、必ずその姿があった。
その邦雄を広臣は、4年前に取材している。美術の話も面白かったが、一番広臣の心に残ったのは、その後に語られたサイドストーリーだ。時は幕末。多摩近郷の森戸村の名主の家に生まれた邦雄は、10歳で江戸に出て、昌平黌に通いながら、北辰一刀流の道場にも通った。若くして北辰一刀流の中目録免許を得た邦雄は、生家に呼び出される。そして兄の昌邦から、一度、本物の人を斬ってみたらどうだと言われた。森戸村組合二十七ヵ村農兵隊の農兵世話役の兄は、武州世直し一揆に遭遇し、三人を斬っていた。そんな兄に、どういう想いが残ったか知りたくて、自分も人を斬ってみようと考えた邦雄は、徘徊浪人を斬る旅に出た。