前編記事『「東北三大地主」の子孫は秘湯の経営者、「日本の製紙王」の子孫は競馬評論家に……47都道府県「名家」の当主に会いに行ってみたら』より続く。
池田勇人を総理にした甲州財閥
そもそも、「財閥」という言葉が初めて使われた事例は何か?
前出の菊地氏によれば、山梨県出身者が結託して経済界を席巻した「甲州財閥」が最初だという。
「甲州財閥の子孫が今も君臨する代表的な例が根津家でしょう。初代・根津嘉一郎は今の山梨市に生まれ、1905年に倒産寸前の東武鉄道を買収して経営を再建しました」
嘉一郎は鉄道の価値を高めるべく、沿線の企業を積極的に支援した。1907年には、群馬・館林市で館林製粉を興した正田貞一郎の求めに応じて、館林に至る鉄道路線も開業させた。
すると、その翌年には横浜にあった旧日清製粉と合併させて成長の足掛かりとしたという。

ちなみに、貞一郎の跡を継ぎ社長となったのが三男の英三郎。その長女は、民間出身初の皇太子妃となった上皇后美智子さまである。
菊地氏が続ける。
「根津嘉一郎は晩年、実業家の懇談会『清交会』を結成し、根津人脈を形成しました。彼は生前、資産の大半を根津美術館などに寄付しようと決めていたが、正式な遺言状をしたためる前に急死してしまった。そこで税務署は彼の全財産に相続税をかけてきた。
このとき、根津系財界人の陳情を受けて相続税を大幅に軽減させたのが、大蔵省東京財務局長だった池田勇人です。根津系財界人は池田の勇断に感動、後に吉田茂に池田の大蔵大臣就任を進言し、池田は総理大臣まで上り詰めていったのです」
当時の政財界の権力の構造が窺えるエピソードである。