ハイデガーVS道元…哲学と仏教の交差するところに、はじめて立ち現れてきた「真理」とは?(第1回 存在とは縁起である その1)

「20世紀最大の哲学者」ハイデガーと、13世紀、曹洞宗を開いた僧・道元。

時代もバックグラウンドも異なる二人ですが、じつは彼らが考えていたことには意外な親近性があったのではないか?

哲学と宗教という異なる「探求」の道が一瞬、交わったときに顕らかにされる「真理」とは?

ハイデガー哲学の研究者・轟孝夫と曹洞宗の老師・南直哉によるスリリングな対話!

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「机」は、いつ、どのようなときに机なのか?

南直哉(以下、南):ご本(『ハイデガーの哲学』)を読んで思ったのですが、『存在と時間』以後の後期の思想をこれだけクリアに捉えた一般向けの本は読んだことがありませんでした。それだけでも、大きな成果だと思います。

その『存在と時間』で、ひとつ気になるというか、どうなんだろうなと思ったのは、中期・後期になるに従って、「時間」の扱い方がはっきり見えなくなってきているような気がするんです。その辺はどう思われますか?

南直哉(撮影/村田克己)

轟孝夫(以下、轟):存在の意味は時間であるということは『存在と時間』にいちばん出てくるのですが、たしかにその後はあんまり言わなくなってしまいます。2~3年後の講義ではまだやっていますが。晩年というか、1960年代に『時間と存在』という講演をやりますが、その間には時間についてはほとんど語っていません。「時間」と語ってしまうと自分の考えが誤解されてしまうと思ったのではないでしょうか。

たとえば,本では鳥が飛ぶという例を出しましたが、「鳥が飛んでいる」ということは、目の前に単に鳥というものがあるというわけではないんです。これまでにも鳥は飛んでいて、これからも飛んでいって、あるいはどことどこで餌を取るとか、鳥を捉えているときのそういうことすべてが、そういう「世界」が立ち現れてくることである。それはある意味では、「これまで飛んできたこと」、「これから飛んでいくこと」ですから時間なんです。

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