小学生時代などに、サケの放流を経験した人は案外多いのではないだろうか。いまも、稚魚放流の様子はテレビや新聞でよく見かける。環境教育や水産資源の増強といった名目でおこなわれているらしい。
卵を孵して、稚魚をしばらく育て、川に放す――「大きくなって戻ってくるんだぞ!」。でも、その後のことはよく知らない。放流したサケは期待どおり増えたのだろうか? 放流に参加した子どもたちは、サケの生態についてどこまで学べただろうか?
2023年2月、日本人生態学者たちによる1本の論文が話題を呼んだ。「放流しても魚は増えない」という、意外な結論を示すものだったからだ。
いったい、どういうことなのか? この研究には専門家だけでなく、非専門家も知るべき「真実」が隠されているかもしれない! 放流事業は見直すべきタイミングに差し掛かっているのかもしれない。
論文の第一著者である照井慧氏の解説でお届けしよう。
放せば増えるのか?
「人間が管理下(捕獲・保護・飼育など)に置いている水生動物を、水系の自然環境(川、湖沼、海など)に解き放つこと」――これは、Wikipediaに記された放流の説明である。
水産資源の維持や増強、ときには絶滅に瀕した種の保全を目的に、放流は世界各地で行われている。2018年にまとめられた統計によると、水産有用種に限っても180種以上が放流されている¹。
中でも、日本は世界でもっとも多くの種を放流しており、「放流大国」といっても差し支えないだろう。この中にはシロサケ、サクラマス、ウナギ、マダイ、アユなどが含まれ、身近な食材の多くが放流事業と関わっていることがわかる。
日本の孵化放流事業の歴史は1876年の茨城県那珂川に始まるが、いまでは全国的な広がりをみせている。漁業のみならず環境教育の一環として行われることも多い。
しかし、放流で本当に魚は増えるのだろうか?「放せば増える」という直感が仇をなしたのか、実は放流の効果をしっかりと評価した例は驚くほど少ない。そして2000年代以降、遺伝学や生態学の研究分野から、その直感に反する検証結果が次々と報告される。
エリートは生き残れなかった
2007年、放流事業の根幹を揺るがす成果がScience誌に発表された²。北米・オレゴン州で行われたその研究は、遺伝情報からニジマスの親子関係を網羅的に調べ、自然河川で放流魚が残した子供の数をはかった。その結果、放流魚はほとんど子供を残せていないことがわかった。
問題は放流魚の育ち方にある。放流魚が育つ人工飼育環境は、自然の川からかけ離れている。放流魚は、そうした特殊な環境のもとで飼育されるが、その過程で「特殊環境におけるエリート」が選抜されてしまったのだ。このエリートたちは外ではうまく生きられなかった、というのが事の顛末である。
この研究を皮切りに放流を見直す気運が高まるが、今なお放流は世界で広く行われている。大量の稚魚を放すことで得られる「数」の効果は大きく、放流なくして漁業は成り立たないと信じられているからだ。
しかし、2023年、その「数」の効果すら怪しいことが明らかになる。