「なぜ私たちは自殺をしてはならないのか?」、哲学・思想の歴史から導かれる「意外な答え」
「なぜ自殺をしてはならないのか」。この問いに導かれて、アメリカの歴史学者ジェニファー・マイケル・ヘクトが哲学の歴史の森に分け入り、思索し、著した『自殺の思想史――抗って生きるために』の邦訳が、このたび、みすず書房より刊行された。批評家のベンジャミン・クリッツァー氏が、同書の議論を紹介する。
「自殺」の論じられにくさ
「自殺」は重大な問題だ。大半の人は、家族や友人が自殺をしようと考えていることを知ったらそれを阻止しようと努力するだろうし、親密な相手が自殺を検討したことがあるという事実を知るだけでもショックを受けるだろう。自分自身が自殺を考えていた時期がある人は、その時分の記憶を苦々しさや不安と共に思い返すはずである。そして、実際に家族や友人に自殺してしまい、心に傷を抱えながら生きている人は多々いる。
また、自殺は個人的にだけでなく社会的にも重大な問題と見なされている。自殺者が多い社会はそうでない社会よりも問題があり、改善の必要があるということは、とくに議論されるまでもなく当たり前の常識として共有されているのだ。
たとえば、日本が先進国のなかでもとくに自殺死亡率が高い国であることは国内でも問題視されているし、政府には経済や社会保障などに関する政策を通じて自殺率を減らすことが求められている。世界保健機関(WHO)も自殺予防が「世界の優先課題」であると明言しており、自殺予防のためのガイドラインを作成して各国に向けて公開している。
しかし、「自殺は悪いことである」とか「自殺は予防されるべきだ」とかいった価値判断は、哲学的には必ずしも自明のことではない。哲学者の森岡正博は、対談のなかで以下のように述べている。
私は「自殺を防がなくてはならない」という前提には、深掘りしていくと実は根拠がない、その底にはぽっかりと穴が空いているんだ、という気づきは、決して隠蔽すべきではないと思います。
社会的には重大と見なされている事柄でありながら、現代の哲学や倫理学で自殺の問題が直接的に論じられることは少ない。生命倫理学という学問領域では医療の現場などにおける「安楽死」や「自殺ほう助」について論争が続いており、多数の論文や著作が出版されている。
だが、それらの議論では、安楽死の対象となる患者本人についてではなく、自殺をほう助するという医療従事者の行為が認められるべきか否か、あるいは社会は法律や制度によって安楽死を許容するべきか否か、といった点が論じられることが多い。生命倫理学は医療や生命科学が関係する問題を扱う分野であるために、個人が他人の手を借りずに自分で実行する昔ながらの「自殺」については論じづらいのだ。