『エヴァ』『もののけ姫』…日本のアニメは「男性の成熟・ケア」をどう描いてきたか

杉田俊介×河野真太郎

現代ビジネス編集部

批評家の杉田俊介氏が新著『ジャパニメーションの成熟と喪失』(大月書店)の刊行を記念し、英文学が専門で『戦う姫、働く少女』(堀之内出版)などの著書がある専修大学教授の河野真太郎氏と8月30日に対談をおこなった。日本のサブカルチャーにおける「男性の成熟」や「男性のケア」を中心に展開した刺激的な対談の一部をお送りする。

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河野 今日は杉田さんの新著『ジャパニメーションの成熟と喪失』の刊行を記念して対談を企画いただきました。実は杉田さんとは初対面なのですが、著作やSNSでのやりとりを通じて、共通する問題意識やリスペクトを感じてきました。とりわけ杉田批評の書き方、批評対象との距離の詰め方には真似できないものを感じています。

私が書く批評というのは、現代がどういう時代かという枠組みがまずあって、そこにさまざまな作品を投げ込んでいくような書き方です。それに対して杉田さんの作家論は、最終的なところで作品への信を手放さない。もちろん手放しの礼賛ではなくて、批判すべきは容赦なく批判しながら、作品の究極的な価値を掴みだしていくような迫り方をする。作品との距離をがりがりと詰めていく、その基礎には杉田さんの類まれな共感力があると思います。

ただし、森達也さんの言葉ですが、「カメラのレンズと対象の距離はゼロにできない」のです。対象との距離がゼロでは作品が撮れないということですね。杉田さんの批評も同じで、作品世界との距離をゼロに近いところまで詰めた上で、そこからどう身を引き剥がすか。それを常に考えられていると思います。

杉田 僕も河野さんの論考からいつも刺激を受けていて、今日はとても楽しみにしていました。よろしくどうぞ。

戦後日本の「オトナコドモ」性とアニメーション

河野 『ジャパニメーションの成熟と喪失』の主題を一言でいうと「大人と子ども」ということになるかと思います。国民的アニメーション作家である宮崎駿と、その子ども=継承者である新海誠、庵野秀明、細田守らの作品群を、作家論と社会批評の両面から論じている。そこで共通するのは「戦後日本人にとって成熟とは何か」「大人の責任とはどういうことか」というテーマですね。

先ほどの話に引き寄せて言えば、対象との距離がゼロになるような共感力というのは、いわば「子ども」的な見方ですね。それに対して、批評文においては対象を突き放した「大人」の言葉で記述していく。この緊張感が杉田さんの文章の刺激的なところであり、心地よいところでもあります。

私の依拠する批評家レイモンド・ウィリアムズの言葉では「ダブルビジョン(二重視)」、ある対象に没入しつつそこから身を引き離していくような見方。今回の本の前段にあたる『宮崎駿論』(NHKブックス)で杉田さんは『風の谷のナウシカ』を論じて、ナウシカのキャラクターに「倫理」と「政治」への引き裂かれを見ようとしていました。倫理とは、目の前にいる個人を愛し、その生命を絶対に救おうとする態度のこと。それに対して、政治という領域では、個人の倫理や愛をカッコに入れて最大多数の幸福を考えねばならなくなる。

ナウシカは倫理の次元を決して手放さない一方で、現実主義的で冷徹な政治の次元へのコミットもやめない。そういう引き裂かれ方がナウシカの魅力であり、作品のテーマでもある、と杉田さんは論じていました。さらに言うなら、そういう倫理と政治に引き裂かれつつ両者を統合していくことを、杉田さん自身が批評を通じてしようとしているのではないかなと思います。

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