2010年に「ハーバード白熱教室」で日本でも一世を風靡した、政治哲学者のマイケル・サンデル。彼の新刊『実力も運のうち:能力主義は正義か?』は、日本でもベストセラーとなっている。
最近では日本でも格差社会が問題視されるようになり、「能力主義」や「行き過ぎた競争」に対して批判的な意見は、知識人に限らず市井の人々の多くにも共有されるようになった。SNSなどの投稿を観察しても、多くの人たちは日本の論壇でなされているような「格差社会批判」や「ネオリベラリズム批判」をサンデルにも期待しているようだ。
しかし、『実力も運のうち』をよく読んでみると、サンデルが展開している議論はわたしたちが「能力主義批判」という言葉からイメージするものとはややズレているようだ。端的に言えば、サンデルが行っている能力主義批判は一般的な格差社会批判などよりもずっと原理的で、ラディカルなものである。そして、ラディカルであるがために疑問の余地も大きく、検討すべき箇所がいくつも存在している。この記事では、日本の読者が『実力も運のうち』を読むときに意識すべき「注意点」を示してみよう。
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競争そのものを批判する
まず指摘しておきたいポイントは、サンデルが批判の対象としているのは、「平等に見えるが実は不平等な競争」ではなく「平等な競争」そのものであることだ。
大学受験という制度に期待されている機能のひとつは、試験で結果を出せれば階層や出自に関わらずだれでも難関大学に入学するチャンスがあり、その大学を卒業することで将来的には大企業に就職したり高度な専門職に就くことも可能になるという、「社会の流動性」を担保することである。
しかし、最近のアメリカでは裏口入学スキャンダル事件が発覚して、Netflixではこの事件についてのドキュメンタリーが配信されている。また、出身大学に多額の献金をした富裕層の子孫は入学が有利になるという「レガシー入学」は公式の制度として存在している。アメリカの大学入試制度では「家の豊かさや階層を問わず、試験の結果によって公平に能力が測られる」という建て前がすでに崩壊しているという事実は、日本でもよく知られるようになった。