共産党を離るの弁

 筆者は、日本共産党が喉から手が出るほど欲しい学生党員であったが、入党以前から諸般の問題とそれに対する党や党員の姿勢に、時に激しい反発をするほどの違和感を抱いていた。まあ、我慢していようかと思っていたが、神谷貴行さんが不当に除籍されたことが一つの契機となり、離党することを決心した。はじめに述べておくが、党の対応の悪さはファクターではあるが、自分自身の生き方の選択として離党したというのが本質なのかもしれない。

 以下、離党の弁と少しばかりの党への提案を述べる。なお、表題は森田草平「共産党に入るの弁」をモジったものである(言いたかっただけ)。以下、敬称略で失礼します。

 離党の弁

 入ったから離れ、食べたから出るのである。差し当たって、入党前後の状況を述べる。

 筆者の曽祖父と曽祖伯父は戦前、全農の活動家として小作争議を組織化、指導していた。その活動の中で、曽祖伯父は共産党に入党、曽祖父は共青同盟(戦後は党員?)に加入している。したがって、筆者自身「共産党的」なものへのアレルギーは全くなかった。党の政策から10年来支持し続けていたが、高3の夏(2022年)、自ら民青同盟に加入した。受験のため活動には参加できなかったが、毎月同盟費は納め続けていた。爾来、特に疑問を持つことなく過ごして来たのであるが、2022年11月の「小池晃書記局長パワハラ事件」でまず違和感を待つことになる。

 (実は、この騒動は党のパワハラ体質の答え合わせとなる出来事であった。事件の数ヶ月前、とある女性国会議員と懇談する機会があったが、党の問題点として「同志に心無いことを言う人がいる」点を挙げていた)

 小池晃パワハラ事件 

  小池のパワハラ、責めることができない周辺の人達に反感を持つのは当然である。しかし、最も卑怯で許し難かったのは、中央の発表があるまではパワハラではないと言い切る、若しくは黙りを決め込むが、「パワハラであった」と認める(変な話であるが)や否や、「違和感があった」「反省しないと」と掌を返す党員たちの姿である。真意ははかれないが、自主性がなく、価値判断までをも組織に一任する姿は、戦中戦後の保守政治家の変わり身の早さを想起させるものである。(他にも例えようは幾らでもある)

 彼らは、戦時中は戦争遂行を進めたが、敗戦直後は「民主主義」や「平和主義」を讃えた。しかし、占領政策の転換により再軍備や反共政策を進めることになる。彼らは強いもの(天皇→アメリカ)に価値判断を委ね、保身を図ったのである。

 彼らは、パワハラをめぐる党員の姿に重なるものが多いだろう。組織人である以前に、責任を持つ一人として主体性を確立することは必要条件である。道義的には「パワハラでなかった」と言い続けている方が、よほど正しく、信用に足る。

 まあ、誰にでも間違いはあるだろう。完璧な組織はないのだからと、この時は一つ期待していたが、またも期待を打ち砕いてくれた。松竹伸幸除名以来の一悶着である。

 松竹問題での疑問

 松竹の提案の中身への賛否は本質的問題ではないので置いておくが、最も反感を覚えたのは党の対応である。提案に過度に反応し、批判は猫も杓子も「反共攻撃」と攻撃で返す。志位の「朝日に言われる筋合いはない」発言によって扇動された地方幹部は新聞社に圧力までをもかけた。はっきり言うと、醜悪でカルトじみていると言わざるを得なかった。

 党の論理的におかしな説明に納得できる訳もなく、爾来、違和感を抱き続け、その都度表明して来たが(機関も知っている)、(よほど若者がいないのか)入党を何度も勧められてきた。

 大学入学

 晴れて第一志望の某大学に合格し、民青大学班に所属した。(数十年前は4桁の民青同盟員がいたそうな)

 当然のごと入党を懇談を繰り返すが、とうとう根負けし、違和感と不信感を抱きながらも入党することにした。「毒を食らわば皿まで」と発言したことを鮮明に憶えている。

 口に入れたが飲み込めない

 聡明な先輩と専従にも恵まれ、それなりに楽しくやっていた。一方で、党の側は期待に反することをやってくれる。いつまでも続く「反共攻撃」の大安売り、しまいには党大会での地方幹部の歯の浮くようなおべんちゃらに新委員長の恫喝まがいの結語である。いくら不味いもん食いの筆者でも、飲み込むことはできなかった。 (ちなみに、粉薬と錠剤は服薬ゼリーがないと飲み込めない)

 無関心、離党へ

 党大会での一悶着について、地区党や支部で何度も説明を聞いた。特に、地区党はちょっと何を言っているのか分からない。てんで話が通じていないのである。地区党大会では、恫喝についても意見したが、やはり、中央発表と全く変わりなく「議論である」の一点張りであった、「こりゃもうだめだな」とつくづく感じ、とりあえず『赤旗』を止めた。ここから、もう何だっていいやという、無関心モードに入っていく。

 そして、神谷貴行除籍の報を聞き、一つの契機として党を離れることを決めたのであった。

 されど変わらぬ「共産党」への愛

 出自とも関わり「理想化した共産党」と呼ぶべきものが、絶えず取り巻いていると感じる(時に桎梏となるが)。殊に、私財を投じ、小作人のために闘った「理想化した先祖」(多くの問題がある:社会民主主義主要打撃論等)の影響が大きい。

 現在、学生の身分でできる「国民の苦難軽減」の実践として、アルバイトを削って複数の学習支援に参加しているが、思想的背景(また大層な)は「皆の幸福なくして、個人の幸福なし」というものである。「国民の苦難軽減」という意識も含め、これは「共産党員」の伝統的な姿勢を継受するものであろう。すると、「共産党員」は一種のアイデンティティなのかもしれない。

 筆者はなかなか頭が古いタイプなので、徳田球一が好んだとされる「為人民無期待献身」という「共産党員」像を生き方の理想とする。実際、多くの党員が様々な分野で献身的に行動していることを知っている。それだけに、組織のていたらくと、同志の主体性を奪うこと、同志が苦しんでいることが許せなかった。また、「共産党員」がアイデンティティであるがゆえに、「理想化していた共産党」像の崩壊に対して激しい拒否反応を示し、「共産党員」としてのアイデンティティを防衛するために離れるに至ったのである。

 

 補稿 何が党員の主体性を奪うのか

「小池晃パワハラ事件」から一連の松竹問題に至るまで、主体性なき党員を散々見てきた。何が党員を組織の婢女ならしめるのであろうか。筆者は、党員一人一人の、そもそもの主体性が確立されていないことに加え、主体性を奪う党組織のシステム(=民主集中制)と歴史に原因を求める。

 主体性の問題

 組織と主体性の問題は、1940年代の「主体性論争」以来の争点である。本旨から外れるので詳細には触れないが、福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」という言葉に表されるように、個人の自主性があってはじめて、一つの組織の独立が達成されるとするのか、「民主主義革命なくして個人の解放なし」とするのかの論争である。共産党は無論、後者の立場から批判した。現在も純粋にこの姿勢であるとは思わないが、体質として、どこか個人の主体性よりも組織の団結を優先するきらいがないだろうか。その賛否を含めて提起したい。

 民主集中制と無責任の問題

 一連の騒動で見受けられた、党員や地方機関の諸般の発言と行動は、中央や『赤旗』のお墨付きを得たものである。つまり、民主集中制の下では「正しい」のである。(党規約第3条参照)

 このことから分かるが、結果として、党員の価値判断をも掌握してしまうシステムが民主集中制であると言えるのではないだろうか。(前記の主体性を重んじない姿勢にも繋がる) 加えて、このシステムは、党内に蔓延る「無責任」という問題に直結すると考える。

 殊に党大会での、神奈川県の代議員を恫喝した結語で露呈したのが、責任主体の不在の問題である。ネット上では田村委員長を責める声が見られたが、筆者はそうとは捉えない。

 大会結語は、委員長一人の権限で作られるものではなく、常任幹部会の決定を経て発表されるものである。したがって、委員長のみを責めるのはナンセンスである。では、誰に責任があるのだろうか。「民主的な議論を経て決まった、みんなで実行すべきもの」であるのであるから、党全体の責任なのであろうか。どれも、ぱっとしない。

 地区党会議を経て、各都道府県党会議で「民主的」に選出された代議員が、党大会で、こりゃまた「民主的」に中央委員を選ぶのであるから、この原則に従えば党の決定は一人一人の党員が責任を負うことになる。しかし、党員は決定にほとんど関与しておらず、責任を負えるはずがあるまい。一方で、中央は「みんなで、民主的に決めたことであるから」と前述のシステムの理屈を盾に、その責任から逃れることができる。そうなると、民主集中制が無責任のおおもとであるということができないだろうか。松竹問題が紛糾したのは、党首公選制(⇔民主集中制)を主張したからであるが、自らの保身のための盾たる民主集中制の崩壊を恐れているからこそではないか、と考察することができる。 あれ、どこかで聞いた話だぞ…(支配勢力・資本家云々...)

 歴史の問題

 民主集中制は、「分派が一方的に中央委員会を解散した」(悪しき歴史修正主義)という50年問題の苦い経験から発展させたものであると主張している。すると、民主集中制が党の根幹であるとして批判に過剰反応を示し、金科玉条としている一定の根拠は、宮本顕治路線の確立に辿ることができる。今までの歴史を「栄えある」ものであるとしてきて、無謬性神話(とうに崩壊している)を信じてきた/抜けきっていないだけに、現路線の正当性を揺るがすことになる民主集中制への批判はとうてい受け入れられないのである。

 客死した徳田の「強権」に全責任を押し付け、組織としての問題や宮本自身がコミンフォルムに靡いたことなどが免責されていることなど、ツッコミどころは枚挙にいとまがないが、今まで「伝統」として引き継いできただけに、今更変えることなどできるはずがない。しかし、中央含め、多くの党員は違和感を抱かないはずがないだろう。歴史を修正せざるを得ないことについて、幹部たちには心から同情する。

 「歴史」を棄てよう

 突飛な意見でしょう?突飛な意見です。でも真面目です。

 筆者の身内(前掲)が戦前の活動家であったこともあり、宮本含め戦前の党員には格別の思いがある。運動の目的や方法はさておき、あの時代に天皇制廃止と侵略戦争反対を訴えたことは誇れるものであろう。殊に非転向幹部の英雄性は多くの学生、知識人の支持を集めることにもなった。しかし、あまりに英雄視されすぎたのである。過度な期待が遺したのは、「正しさ」への過信とプライドの高さであったと考える。結果として、「間違えられない」ということを気負いしてしまうことになったのではないだろうか。

 現在の党の組織建設と運営、機関紙対策を見ていると、離れ行く身でありながら心が痛くなる。過去の成功体験にすがって理想化し虚勢を張る姿には、没落貴族や体制末期の支配層への何とも言えない憐憫に近しいものを感じてしまう。

 ある老同志

 地区党会議でのこと、老齢の党員が「昔はこれだけ読者がいた…楽しかった...」「先輩の○○さんが亡くなる前は...」「もう皆年だし、何をどうすればいいのか分からない」と、切々と報告している姿を見た。この方は、休憩時に回ってきたカンパ袋に、薄い財布からお札を取り出し入れていた。この話を聞いていた時も、こうやって思い出している今も、とても耐えられない心持になっている。この名も知らぬ老党員の、自らが人生をかけて抱きしめてきた信条と党への愛と、高齢ゆえにままならぬ心身や理想とかけ離れた社会の現状とのギャップに感じるやりきれなさには、共産党そのものに象徴的な心情を見出した。

 この同志や組織の、昔を理想化する姿勢は、筆者のような若者にとってはある種「組織にとって害悪で下らないもの」であると冷たくあしらうこともできる。(批判者には、「老害」と揶揄する人もいる)しかし「共産党員」が自分の生き方である以上、決して無碍には出来ない、大切にしたい心情である。筆者もよく分かる。無論、中央の老幹部のノスタルジーもである。しかし同時に、同志と「共産党」を愛するがゆえに、克服しなければならない心情でもあると捉える。

 「歴史」の放棄

 現状として、102年の歴史は自由な思考の桎梏となっている部分が大きい。そこで、この枷から解放されるために、「歴史」を放棄することを提起したい。無論、党を畳めと言っているのではない。102年の歴史を、良くも悪くも積み重ねとして血肉化するために、体制を正当化する「中央史観」と呼ぶべき歴史観を排して、真摯に、実証的に党史に臨む必要性を提起するのである。

 青臭い理想に過ぎないが、公式の「党史」に依拠する、上からの党のアイデンティティを受け入れるのではなく、党員一人一人が、党の歴史と自分たちの内面と向き合うことによって人間としての主体性を確立し、自由な組織を作り直さねばならないのである。

 

 おわりに

 キーボードを叩いていると思いの外楽しくなってきてしまい、「少しばかり」と思っていた党への提案が離党の弁を上回る量になってしまった。(ジャン=ジャック・ルソーの『人間不平等起原論』の構成みたい)

 ここまで目を通した方なら理解していただけるだろうが、共産党に対する愛は何よりも大きく、一生をかけて「共産党員」的生き方をしようと思っている。しかし、それだけに、自分の中の「共産党」が崩れていくのが我慢し得ず、苦しむ同志を見ていられなかったのである。

 筆者の思想形成には「少国民世代」の考えが大きな役割を果たした。そのため、権力志向や「長いものには巻かれろ」を嫌い、「野党」にしか投票する気がない。(自民党が与党なら現野党。逆もまた然り)したがって、今後も共産党に投票し続けるだろう。また、未練がある(無論、党組織にはない)といえばあるので、復党する可能性もゼロではない。その際はよろしくお願いします。(そのあかつきには、推薦者名に書いてくれるよう専従にも伝えておいた)

 最後に、党改革のために闘っている同志の皆さん、本当に申し訳ありません。

 

多分に筆が滑っています。お目汚し致しました。また、匿名で失礼いたしました。

2024年9月5日