『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』「ホーム」シリーズ3部作として、とうとう家へ帰る道すらなくなり、あらゆるものが失われた先に、がらんどうの新たな「ホーム」にたどり着くあのラスト……ド感動した
正直、いままでのMCUスパイダーマンには、楽しみつつも煮え切らない部分があった。
『シビル・ウォー』でトニーにスカウトされる形で急遽サプライズ的に参戦したことを皮切りに、その後『ホームカミング』ではベンおじさんや蜘蛛に噛まれるエピソードなどをすっ飛ばしてMCU本格参戦。しかしやってることはトニーの尻拭いだったし、ラストで地に足をつける選択をするも、結局『インフィニティ・ウォー』で半ばどさくさまぎれにアベンジャーズ加入。『エンドゲーム』を経て続く『ファー・フロム・ホーム』では、これまたトニーの尻拭いをさせられるわけで、しかもアイアンマンの後継者探しの文脈に押し込められてしまう。もちろん、初めてピーターが自分でスーツをつくることで彼自身の道を歩もうとはしたものの、個人的にはやっぱりそれはトニーの遺産の上に成り立っているものだし、何より「ハイテクスーツ」だし……という違和感は拭えなかった。
つまり、これまでのMCUスパイダーマンの歴史は、必然的にMCUという大きな世界の文脈に立脚し、ゆえに引っ張り回され、それでもなんとかNYという小さな世界を守る「親愛なる隣人」になろうと足掻いてきた歴史だったと思う。だから自分は、はやくMCU文脈から脱却してトムホスパイディの話をしてくれとずっと思っていた。
そんななか『ノー・ウェイ・ホーム』のマルチバースコンセプトが発表されたとき、何より不安だったのは「最終作でゴチャついて終わる」という歴代スパイダーマンシリーズと同じ轍を踏んでしまわないかということ。そして単なるファンムービーに終わってしまわないかということだった。正直、予告編の不自然なカットやら何やらで、歴代スパイダーマン3人が揃い踏みすることは分かりきっていたので、そうなると最後の最後でお祭り状態で訳が分からなくなりそうだと危惧していた。スパイダーマンのドラマが蔑ろにされるのではないかと。そうなるとサプライズ感を楽しむしかないが、しかしサプライズ要素にしたって、揃い踏み以上の何かが無いと真の意味では驚かないだろうし……とモヤモヤは晴れなかったのだ。
しかし鑑賞後の今、その頃の自分は完全に間違っていたといえる。『ノー・ウェイ・ホーム』がやったことは、むしろ「いい意味で予想を超えない」ことだった。我々が見たかったものに最大限丁寧に向き合い、提示し、そしてその見たかったものをもトムホスパイディのドラマの決着を描くために利用するという、これ以上なく誠実な作品だった。
自分がそれを実感したのは、あのラストシーンだ。実はこの映画で自分が一番涙腺にきたのは、スパイダーマン揃い踏みのキメ画でも、トビースパイディが笑顔で答える「努力してます」でも、MJを救うアンドリュースパイディでもなかった。あのラストシーン、ダンボールを開けるとのぞく高卒認定試験のテキストにこそ、自分は一番グッときてしまったのだ。そしてその瞬間、本作はスパイダーマン映画として圧倒的に正しいと思ったのだった。
なぜか。まずこのラストシーンには、前述のようなMCUに引っ張り回され続けてきた文脈が大いに貢献している。今回、トムホピーターは初めて誰かの尻拭いではなく、自分自身の尻拭いをしなければならなくなる。この事態を引き起こしたのはトニーではなく彼自身、「MJとネッドと3人で同じ大学に行きたい」という彼のティーンネイジャーらしい等身大の願いだったからだ。さらに言えば、これまでピーターはずっと、いち早くヒーローとして認められたいという願い(すなわち早く大人になりたいという欲求)を抱いていたわけだが、本作ではスパイダーマンというヒーローではなく、むしろピーター・パーカーとしての平穏な生活を手に入れたいという葛藤が描かれている。MCUという大きな文脈に立脚していたこれまでの作品とのコントラストが効いているのだ。
ピーター・パーカーを選ぶかスパイダーマンを選ぶか。それはまさしく、これまでライミ版やウェブ版を通じて幾度となく描かれてきた「大いなる力には大いなる責任が伴う」物語のテーマに他ならない。
トビーのスパイディもアンドリューのスパイディも、この人生の二者択一を迫られた時に、それらを統合し、ピーター・パーカー/スパイダーマンとしての居場所を世界に見出してきた。そしてその本質にあるのはいつでも、ただ目の前にいる人を救いたいという「人助け」の心だった。その意味で、今回トムホスパイディに投げかけられる「人助け」の問いは、ある種の究極だ。ラスボスとなるグリーンゴブリンは、スパイダーマンのルーツである「おじさん(今回はおばさん)の死」を引き起こす張本人であり、そんなヴィランをも許し救えるのかという究極の試練がここにある。それは、かつてライミ版が最終作『スパイダーマン3』においてサンドマンを登場させることでスパイダーマンに与えた試練の変奏でもあるかもしれない。
自分が驚いたのは、その試練を乗り越えた方法だ。自分はてっきり、グリーンゴブリンとの対決(あの暴力演出は凄まじかった)の末に、突き刺そうとしたグライダーをすんでのところで捨てるのかと思った。しかしそうではない。ヴィランを救うというある種究極の人助けを志した後でも、目の前におばさんを殺した張本人がいるとああなってしまうというのは、むしろ説得力がある。
そして、そんな彼を救うのは、かつてノーマンを死なせてしまったトビースパイディなのだ。これは言うまでもなく彼にとっても『スパイダーマン』ラストのやり直しの機会であり、大切な誰かを喪失したからこそ「人助け」ができるというスパイダーマン哲学そのものの体現にもなっている。「それが僕らの仕事だ」と答える先輩スパイダーマンの言葉がとんでもなく重く、とんでもなくヒロイックだ。
ここでさらに重く響いてくるのが、「無駄ではなかった」という言葉だ。もちろん、劇中ではメイおばさんの死についての台詞として語られる。しかし、上記のクライマックスをふまえメタ的に解釈すると、「(これまでのスパイダーマンシリーズは)無駄ではなかった」という自己言及にも思えてくる。ライミ版もウェブ版も、ある種どこか中途半端な終わりかたをしてしまったシリーズだ。しかし、その歴史があったからこそ『ノー・ウェイ・ホーム』という作品が生まれたのも事実なのだ。
そしてそれは巡り巡って、今やライミ版・ウェブ版の救いに繋がった。そう考えると、本作はまさにスパイダーマン同士が……もっといえば、歴代スパイダーマンの「物語」同士が、「傷つき続けてきた自身によって、傷ついた他者を救いあう」という構造になっていることがわかる。大いなる力を使った「人助け」によってスパイダーマンは傷つき続ける。しかし傷つくからこそ、大いなる責任を果たしてまた誰かを救おうとするのだ。
つまり、本作はスパイダーマンとは何たるかということを、スパイダーマンの物語同士が救い合う構造そのもので示したのだといえる。ここに、アニメ『スパイダーバース』との共通項を見出せるのだが、しかし同時に本作ならではの必然性を見出すことができるだろう。すなわち、「繰り返しリブートされてきたスパイダーマン映画」という文脈を用いることの必然性を。
だからこそ、本作のピーターは最後にあの選択をするのだ。それは、「責任」を受け入れるという通過儀礼であるとともに、MCUという大きな文脈からの脱却にもなっている。あのラストシーンだけ観れば、おそらく歴代スパイダーマンの中でも最も可哀想な結末だろう。自身のわがままが招いた事態とはいえ、もはやメイおばさんどころか、MJも親友も居ない。このままでは大学に入れないどころか、高校すら卒業できない。
しかし、そんな極限の孤独状態になってしまっても、彼は自分でアパートの一室を借り、高卒認定を取ろうとする。もはや中盤で大活躍した、ハイテク機器満載のコンドとは対照的だ。がらんとしていて、機械といえばミシンだけ。そしてみんながクリスマスで浮かれるなか、メイおばさんの遺したあの言葉を胸に、そのミシンで縫ったお手製のスーツとともに、「人助け」に繰り出すのだ。なんて悲しく、しかしなんて勇気が湧いてくるシーンだろうか。これぞスパイダーマンオリジンではないか。
つまり、我々はこの3部作で、長いひとつのスパイダーマンオリジンを観ていたということになる。こうなってくると、翻ってMCUスパイダーマンに抱いていた数々の不満……大きな文脈に引っ張り回され、ハイテクスーツを使い、いつまでもNY市民に応援されるシーンがないというような不満も、「真にスパイダーマンになるまでの途中経過なだから」という理由でむしろ許容されてしまうのだからなんともズル過ぎる映画だろう。
しかしMCUとして、スパイダーマン映画として使えるもの全てを最適な方法で使い切り、とんでもなく誠実な「親愛なる隣人」の物語を語り切ってくれた本作には、ただただ感謝しかない。