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知ることが生き方を変えるとき(1)~絹田幸恵著『荒川放水路物語』を読む

長く足立区で小学校の先生を勤めた絹田幸恵は、あるとき社会科の授業で、近くを流れる荒川放水路(現在の名称は、荒川)は、人が掘った人工の川だと教えたとき、「うそだぁ。あんな大きな川、人間が掘れるはずないよ」「どうやって掘ったの」「なんで川を掘ったの」「この川どっちに流れてんの」、、つぎつぎ噴出す子どもたちの素朴な疑問に十分に答えることができなかった。子どもたちを納得させられるような放水路についての詳細な資料は、探したけれど見つからなかった。
絹田は、それではと、自力で放水路の歴史を調べ始めた。夏休みごとに放水路の近くの昔からの家を訪ね、話を聞き、また、荒川や利根川の工事事務所に行き、多数の聞き書きと写真と資料を集めた。それらは、スライドや台本にまとめられて授業で使われた。
絹田は、いよいよ小学校を退職するというときに、これらの資料を一冊の本にまとめて出版することにした。題して『荒川放水路物語』。それは、好評をもって迎えられ、その2年後『新版 荒川放水路物語』(1992年刊)となった。

この本は、すでに書かれた書物や資料からの引用を器用にまとめたというようなものでない。絹田には「河川工事のことなど全く基礎知識」がなかったから、土木工事を一から聞いて学んだ。この本のほんとうに素晴らしいところは、放水路の工事を行い、用地の買収に応じ、また工事を見ていた、さまざまな人々からの聞き書きを大切に生かしているところだ。だから、この本は、川の物語であるだけでなく、「そこに住み、生きた人たちや、その川の誕生にかかわった人たちの、つまり、人間の物語」でもあるのだ。

江戸時代までさかのぼって、利根川・隅田川の歴史、放水路掘削が決まるまでの諸事情、用地買収から工事の実際に至るまで、荒川についてのすべてを調べたこの本は、今なお、荒川の歴史について包括的に書かれた唯一の本だ。類書はない。さらに、この本の内容が信頼に足るものであることは、たとえばあの目利きの川本三郎が『荷風と東京』(都市出版 1996年刊)の中で参考書目として挙げていることからしても推測がつくというものだ。素人歴史家のアマチュア歴史書ではない、と断言してよい。

この本は、一人の教師が子どもたちの素朴な疑問に真摯に向かい会うということはどういうことか、人に教えるということがどれほど真剣な営みであるかということも教えてくれる。僕は、絹田に知識だけではなくて、知とは何か、知るということはどういうことかを含めて、その生き方をも学ぶことにもなったのだ。【この項(2)に続く】

絹田幸恵著『新版 荒川放水路物語』(新草出版 1992年刊)現在品切れ。


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by espritlibre | 2004-09-02 00:43 | L 絹田幸恵
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