「3年だけ」のはずが…日本で過ごした15年 退団で溢れた涙、31歳の心に宿る“第2の故郷”
2023年に西武を退団した呉念庭…現在は出身地の台湾でプレー
「ラグザス presents 第3回 WBSC プレミア 12」では、チャイニーズ・タイペイ代表の戦いにも注目が集まった。2023年まで西武でプレーした呉念庭内野手は、台湾に帰国後、社会人チームを経て今年6月のドラフトで、台湾南部・高雄市に本拠地を置く台鋼ホークスに入団。母国で新たな人生を歩み出した。
15歳の時、台湾プロ野球(CPBL)の選手だった父親の勧めで日本の岡山共生高に留学。しかし、日本語もわからず、冬の日本の寒さも身に染みた。台湾は弁当を温めて食べる習慣があり、冷たい弁当を食べることにも馴染めなかった。当時は「生活全てに困った」と振り返る。
「父は日本の社会人チーム、トヨタ自動車で2年間プレーしたことがあり『いい経験になったから』と日本への留学を進めました。日本の野球中継も見ていたし、日本の野球ゲームもやっていた。甲子園への憧れもあったので、留学を決めました。でも、3年間だけで台湾に帰ると思っていました」
高校3年間は常に母国に帰りたいと思っていたが、仲間と一緒にいることが楽しく、頑張ることができた。卒業後は、第一工業大へ進学。「高校で全く注目されなかったら、台湾に帰っていたと思います」。大学進学が決まり、日本でプロを目指すことを決めた。
そして、2015年ドラフト7位で西武に入団。2021年にはキャリアハイの130試合に出場し、打率.238、10本塁打48打点の成績を残した。だが、日本で最後のシーズンとなった2023年は41試合の出場にとどまった。
「8年間、全てがいい年ではありませんでしたし『もう少し試合に出たいな』と思うこともありました。でも、成績が悪い年でも球団は契約を更新してくれた。『またチャンスがあるから、来年頑張ろう』という気持ちでした」
最後まで悩んだ帰国「離れるのが辛かった」
1年1年必死でプレーした。「3年だけ」と思っていた日本での生活は気付けば15年に及び、人生の半分を日本で過ごしていた。「台湾で主力として活躍し、家族や友人の前でプレーしたい」。以前から、そんな30代の人生プランを描いていた。
「20代は日本で夢に向かって頑張って、でも日本でバリバリのレギュラーじゃなかったら、まだやれるうちに台湾でレギュラーを獲り、試合に出たいと思っていました」
だが、西武退団を決断するのは最後まで悩んだ。何が自分にとって正しいのかわからず、家族や友人に相談した。「あとは念庭の選択だから」と言われたが、15年生活した日本を離れるのは、簡単ではなかった。さまざまな思いがこみ上げ、退団会見では涙を流した。
「台湾に帰ることを西武のみんなに伝えると、『えー、マジで』という反応で、最後は『頑張ってね』って言ってくれました。西武の8年間含め日本での15年、それを振り返るともう涙が止まらなかったですね。いろいろ思い出すと、離れるのが辛かった。でも、みんなとは今でもよく連絡を取り合っているので、まだ日本にいるような感じがしています」
台湾では6月のドラフトで指名され、1年目のシーズンを終えた。今後は40歳まで現役でプレーすることを目標に掲げる。そしていつか「日本と台湾を繋ぐ架け橋になれれば」という夢がある。「今年の日本のドラフトでも台湾人選手が指名されました。日本と台湾がどんどん交流できたら。何か一緒にできたら、それが僕にとっては1番だと思っています」。第2の故郷に、いつか恩返しする。
(篠崎有理枝 / Yurie Shinozaki)