いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

『TSUTAYA』という『平家物語』

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 ひと月くらい前、久しぶりにTSUTAYAのリアル店舗に行ったのです。
 職場での仕事のあと、別の場所での会議の予定があって、それまで2時間くらい時間が空いてしまったので。
 けっこう長い間通っているTSUTAYAなのですが、内装がだいぶ様変わりしていたことに驚きました。

 TSUTAYAといえば、レンタルDVD、CDがメインで、最近はレンタルコミックのスぺースが広くなり、ゲームソフトやDVD、CD、文具の販売コーナー、あとは「ショッピングモールの紀伊国屋などの大型書店には及ばないものの、地方都市の郊外では唯一無二くらいの品ぞろえの本」というのが、僕のイメージだったのです。

 レンタルDVDコーナーは、いつもけっこう家族連れで賑わっていて、人気作品はほとんど「貸し出し中」、棚を見ていくと「ああ、こんなマイナーな作品でも、ちゃんと貸りて観る人がいるんだな」と、なんとなく嬉しくなることもありました。

 ところが、最近のTSUTAYAのレンタルDVDコーナーは、けっこう閑散としていることが多いのです。
 週末になると、人気の新作や流行りの子供向けアニメなどはまだ借りられているのだけれど、平日は人もまばらになっています。

 そして、今回の内装の変化では、レンタルコーナーが狭くなり、書店スペースが広げられていました。

 レンタルDVD、CDと書店との複合店舗として、郊外型書店をどんどん駆逐しながら店舗を増やし、多くの地方都市で「いちばん品揃えがマシな書店はTSUTAYA」という状況になってしまった歴史をみてきた僕にとっては、今のTSUTAYAの状況は感慨深いものがあります。

 「Tカードはお持ちですか?」がウザいと一時期ネットで言われていた、そのTカードも、最近は他の楽天ポイントやDポイントなどに押され、使える場面が減ってきています。Tカード経由での顧客情報が大きな武器だったCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ:TSUTAYAを経営している会社)も、完全に一時の勢いを失ってきているのです。

 都心に大型店を出し、「TSUTAYA図書館」では賛否両論が巻き起こり、「TSUTAYAにあらずんばレンタルDVD店にあらず」という感じだったのに。
 なんだか、時代の変化というか、世の無常を意識せずにはいられません。
 ちょっと前までは「みんな『TSUTAYA』になってしまう!」と「文化的な危機」すら覚えていたのが嘘のようです。

 TSUTAYAは成功体験にあぐらをかいて、何もしなかったのか?というと、そうでもないんですよね。
 しばらく前にはレンタルDVDを他の店舗で返却できたり、郵便でレンタルできるサービスをはじめていましたし、家庭用のオンデマンドでのレンタルサービスも開始していました。リアル店舗での月額単位のサブスクリプションでの定額レンタルも導入しています。

 TSUTAYAのオンデマンドのサービスって、けっこう前から存在していたのですが、僕は「わざわざこのくらいの品ぞろえのために、配信(オンデマンド)サービスに加入はしないよなあ。実店舗もけっこう近くにあるし」と、仕事で借りていたレオパレスのテレビの画面に呟いていた記憶があります。
 
 いや、正直なところ、日本ではオンデマンドの映像レンタルは、アメリカみたいには一般化しないのではないか、とさえ思っていました。
 アメリカでも、ネットフリックスの歴史をみると、映像配信ビジネスには懐疑的な人が多かったみたいなのですが。


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 人は「作品そのもの」だけを求めてレンタルDVD店に来るわけじゃない、とアメリカでも最初は思われていたのです。
 レンタルDVD店は文化の発信地であり、コミュニティのような性質を持っている、と。

 思い返せば、僕が物心ついた時期、1970年代半ばくらいは「テレビ番組はその放送時間にテレビの前にいなければ観られないもの」でした。
 以前、『ウルトラマン』をつくっていた人たちが、見逃した子どもの親が「明日子どもが学校で友達との会話に入れてもらえなくなるから、せめて今回の怪獣の名前だけでも教えてもらえないだろうか」と電話をかけてきていた、という話をしていたのです。

 1980年代に入って、家庭用ビデオデッキが登場しました。
 はじめて録画した番組を「再生」したときには、「なぜ、こんなふうに映像が『記録』できるのか?」と驚いたのを覚えています。
 当時は操作もけっこうわかりにくく、ハードディスクも存在しませんでした。すべてビデオテープに録画しなければならず、録画もチャンネルと録画時間を数字で設定する、というもので、録画ミスやプロ野球中継の延長で途中で録画が切れてしまった、というようなトラブルも頻発していました。当時まだ10代で家族の中では「メカに強い」と自負していた僕は、録画係としてけっこう活躍していたものです。
 
 中学生くらいになって、家の近くにも「レンタルビデオ店」が生まれ、「好きな映画を好きな時間に観ることができる」ようになったときには、時代は変わったなあ、と思いました。
 それまでは、有名な映画は、映画館での公開後何年かして、テレビで放映されるまで、観ることができなかったのです。

 とはいえ、当時はレンタル料金が1本500円くらいしましたし、レンタル店は自転車でかなり頑張らないと行けないくらいの距離にあり、たまに友達と一緒に行くことができる程度でした。期限までに返せる見込みがないと借りられないし、中学生には敷居が高かった。

 大学に入って、ひとり暮らしを始め、車の免許を取ってからは、大学の近くのレンタルビデオ店は、僕にとって大事な居場所になりました。
 いろんな映画やバラエティ番組を観たし、そこで知人と鉢合わせすることも多々ありました。
 そこで同級生が付き合っている(らしい)のを発見し、あわてて退散したことも。
 今から考えると、あんなところに二人で来るくらいだから、別に隠してもいなかったのでしょうけど。

 思えば、「なんだかやることがない、ちょっと淋しい気分だけれど、誰かと直接会って遊ぶほどの気力がない、でも、人の気配みたいなものは恋しい」というときに、僕はレンタルビデオ店に通っていました。
 僕の場合、けっこう頻繁に、そういう感じになっていたのです。

 しばらく経って、近隣に大きなTSUTAYAやゲオができて、行きつけの個人経営のレンタルビデオ店は閉店し、車で行っていた郊外型の中規模書店はバタバタと潰れていきました。
 そして、「みんなTSUTAYAになってしまったなあ」と嘆きながらも、僕はTSUTAYAに通っていたのです。
 郊外型書店が、「書店」なのに、「雑誌とマンガと文庫本」ばかりになってしまい、TSUTAYAのほうがいろんな本が置いてあって、文芸書コーナーもずっと広い(とはいっても、たいしたことはなかったのですが)、という状況は、けっこう長く続いていました。

 なんのかんの言っても、DVDにCDに本にゲーム、インドア人間の僕にとっては、TSUTAYAは自分のためにあるような場所、ではあったのです。

 ところが、ここ数年、とくにコロナ禍以降は、AmazonプライムビデオやNetflixなどの映像配信サービスが、一気に浸透してきました。
「わざわざ月額料金を払ってまで観なくても」という人たちに「映像配信サービスの入り口」を作ったという点では、Amazonプライムビデオの存在は、とくに日本では大きかったと思います。
 Amazonのプライム会員にさえなっていれば、無料で観られるコンテンツがたくさんある。
 「いつでも借りられて(あるいは追加料金なしで観られて)、わざわざ店舗に返しに行く必要がない」というのは、こんなに快適なものなのか、と思い知らされました。
 これまでの映像配信サービスは、配信されている作品に新作が少なかったり、料金が割高だったりしていたのですが、アメリカからやってきた「黒船配信サービス(AmazonプライムビデオやNetflix)」は、とにかく選択肢が多い。映画の新作がものすごく充実していたり、安かったりはしないけれど、これだけの大量のアーカイブがあれば、何か「観てみようと思うもの」は見つかります。「何を観ようかと探すこと」も、ひとつのエンターテインメントになっています。Netflixの「レコメンド機能」は楽しい。
 
 それでも、リアル店舗で、なんとなく棚を見て回るのも、けっこう楽しくはあるんですけどね。
 しかしながら、そこで見つけた気になる作品を、今の僕はプライムビデオやNetflixで「検索」してしまう。
 最近テレビを買い換えて感じたのですが、テレビを大きくして、Netflixに入るだけで、人生の満足度は数パーセントくらいは改善するのではなかろうか。


 こうして、TSUTAYAの苦境が伝えられているのをみると、「行きつけの個人経営レンタルビデオ店を踏みつぶしていった巨人」にネガティブな感情を抱きつつ通っていた僕は、複雑な気分になってしまいます。
 
 TSUTAYAは、打つべき手は可能なかぎり打っていた、とも言えるのです。
 けっして、ただ現状維持を期待して、座して死を待っていたわけではなかった。
 それでも、AmazonやNetflixが本格的に参入してくると、TSUTAYAだけの力では、対抗することはできませんでした。
 
 冒頭の記事では、『ゲオ』はリユース方面で業績を伸ばしているようですが、ゲオのレンタルDVDコーナーやゲーム販売コーナーも、以前より閑散としているように見えます(僕はときどきゲオにも行くのです)。

 そんな現状で、TSUTAYAが、結果的に「書店」に回帰している、最後に残った「長所」が「手に取れる本が(比較的)充実していること」だというのは、感慨深いものがありますね。物理的に「たくさんの本に囲まれる」体験をするのは、Kindleでは難しいですし。

 僕の子どもたちも、映像作品は配信で観るのが「普通」だと思っているようです。紙の本は、けっこう買っているみたいだけれど。
 やはり「図書館」で紙の本に慣れている、というのはけっこう大きい。
 近い未来には、学校の図書館も「ひとり一台貸し出されたタブレット端末で閲覧する」ようになるのだろうか。

 家庭用ビデオデッキというものが普及しはじめてから、2022年の「映像配信サービスがあるのが当たり前の世界」までを生きてきた僕にとっては、TSUTAYAの凋落は「栄枯盛衰の歴史」として感慨深いものであるのと同時に、「このまま無くなってしまうのは寂しい」のも事実なのです。都会の旗艦店だけが残っても、いまの僕にはほとんど意味がないし、そもそも、こういう「無くなると寂しいモード」に入ってしまったものは、大概、もう「終わっている」のかもしれないけれど。


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