いつか電池がきれるまで

”To write a diary is to die a little.”

僕と西原理恵子さんと「愛すること」の呪い


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 僕が西原理恵子さんのことを知ったのは、20代半ばくらいだったと記憶しています。仕事で遅くなった帰りに寄った書店(当時はまだ23時くらいまでやっている郊外型書店が結構あった)の文庫コーナーで見つけた『怒涛の虫』というエッセイ集を手に取ったのが始まりでした。

 その後、神足裕司さんと組んだ『恨ミシュラン』が話題になり(こんな有名店に「喧嘩を売る」ような本が『週刊朝日』に載るのか!と当時は驚きました)、西原さんは、税務署と闘ったり、女の子の生き方を指南したり、アルコール依存症に関する講演をやったり、『毎日かあさん』で「育児のカリスマ」的な存在になったりして、ずっと人気作家であり続けています。

 僕に取っての西原さんの第一印象は「こんなギャンブラーで破滅型の女がいるのか……」でした。
 西原さんの作品をずっと読んできていて、あの『まあじゃんほうろうき』で、麻雀オヤジたちに金を巻き上げられまくっていたサイバラが、「大作家」に駆け上がっていくのを、「面白人生ウォッチ」のような気持ちで追いかけていたのです。プチ「おんな太閤記」。
 思えば、西原理恵子という人は、自分の人生をエンターテインメントとして切り売りどころか、全部売り物にして、「サイバラリエコ」として生きてきたようにも思います。


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漫画家・西原理恵子さんがこれまでの人生で最も影響を受けたのが、夫だった戦場カメラマン・鴨志田穣さん。ふたりの絆の真実とは…? NHK番組「こころの遺伝子」を書籍化。

 西原さんは「自分のこと」「家族のこと」を自らの手でたくさん描いています。
 それに対して、この『あなたがいたから』は、良くも悪くも「第三者」によってつくられた番組なのです。

 ギャンブルに追い詰められた父親を見ていたはずの西原さんが、どうしてギャンブルにのめり込んだのか。その理由は、自分でもよくわからないという。ただ、ずっと考え続けていたのかもしれない疑問がある。
「人を人でなくしてしまうものは、いったい何なのか? それを見てみたい」
 ある医者は、「依存症というのは病気の一種だ」と前置きして、こんな説明を聞かせてくれた。
 たとえばパチンコ依存の人は、フィーバーでドキドキしているときが日常の状況になってしまう。酒の依存だと、酒を飲むと頭がシーンとして落ちついて、他人とコミュニケーションがとりやすくなる。どちらも、その状況が一番居心地がいいから、常にそうならなければいけないという心理になってしまう。そんな人が、すごく多いのだと。
 同じ医者に、またこうも言われた。
 どうしても同じ失敗を繰り返す、依存の女性たちがいる。パートナー選びにしても、ダメな男性と付き合ってさんざん苦労させられ、一度は懲りたはずなのに、次もまた同じようにダメな男性に魅かれてしまう。
 それは、ドキドキさせられたりハラハラさせられたりする日常を、心の中で「面白い」とか「すてきなことだ」と置き換えてしまう女性たちなのだ。
「そう聞いて私、『はい』って。『それは間違いない、私です』って。やっぱりそのドキドキ、ハラハラが面白かったり、そういう思いをさせてくれる人を好きになるんですよ。お父さんにドキドキ、ハラハラさせられた。それを面白いことだと心のどこかで思い込んでいるので、仕事も、好きになる男の人も、ドキドキ、ハラハラさせられることが私には面白いんです」

 西原さんと結婚した故・鴨志田穣さんについての、こんな話も出てきます。

 鴨志田さんの高校時代からの親友の土肥寿郎さんは、当時を振り返ってこう語る
「当時の鴨志田は、西原さんが好きな破滅型というか、破天荒な人間、キャラクターを演じていたような気がしてならない」
 同じような見方をする鴨志田さんの友人はほかにも何人かいた。私たちは思い切って、「鴨志田さんは、漫画の中で笑い飛ばされることに苦しんでいたのではないか」という疑問を西原さんにぶつけた。
 一瞬、思ってもみなかったことを聞かれた戸惑いが、西原さんの表情に浮かんだような気がした。
 白状すれば私たちは、西原さんが本当に悪いことをしてしまったとうなだれるのではないかと、どこかで思っていた。しかし西原さんの答えは、意外なものだった。
「彼にはそれがつらかったかもしれない……。でも私、また同じ目に遭っても、また同じことをすると思う。やっぱり悪口を描いて、相手を笑い飛ばすと思う。それが正しいか間違っているか知らないけど、ほかにどうやって愛情表現をしていいのかわからないから」
 力強い、確信に満ちた声色だった。
「だから、『大好きなのに、どうして? 大好きなのに、どうして?』って私は言ったんだけど、彼はこっちを見ながら、どんどん沖のほうへ進んでしまう子どものようだった。もうすぐあの子は沈んじゃうんだろうなぁと思うけど、私は帰ってきてほしくて一生懸命、作品の中でギャグをやったんだけど……」
 西原さんは漫画を通して、必死に鴨志田さんに語りかけていた。しかし、その思いは鴨志田さんに届かなかった。


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 この本で、西原さんは自身の半生について語っておられます。
 仕事をして、お金を稼いで食べていくためには、どうすればいいのか?

 やらないうちは、何とでも言えるんですよ。
「あの監督はダメになった」「あのマンガは面白くなくなった」、いくらでもディスることができる。
 たまにいますよね。ゴールデン街とかで、いまだにくだまいてるおっさんが。
 根拠のない自信は、人をいっぱしに何者かになったように錯覚させるから。
 要らんプライドをへしおられて、目が覚めてからが本当のはじまり。
 じゃあ自分にできるのは何なのか、初めて次の一歩を具体的に考えることができた。


 私は、芸術がやりたいわけじゃなかった。
 私がやりたいのは、何でもいいから絵を描いて、食べていくこと。
 だとしたら、最下位の自分にできることは、何なのか。そこで考えた。
 それで、私はエロ本に行ったんですよ・
「自分には才能がある」と思っている人たちが、絶対に行かないところにこそ、自分の座れる椅子があるんじゃないか。あの時、どうしてもイラストレーターになるんだって、いつまでもしがみついていたら、今の自分はなかった。


 西原さんは、「絵を描いて食べていくこと」を生きる目的としていて、それは、ずっとブレてはいないように思われます。
 
 そして、「描くこと」「ネタにする」ことが最大の「愛情表現」だということも。
 西原さんが娘さんにやった(とされる)こと、娘さんが告発していることには、僕も「ひどい行為、虐待」だと思うことがたくさんあります。

 でも、西原理恵子という人のこれまでの生きざまを見ていると、「身内をネタにしてしまう」のは、「そういう形での愛情表現」でもあるのです。

 それが、相手にとっては辛いことだというのは、西原さんにはわからなかった。いや、あの年齢になったら、そのくらいの想像力は持っていて然るべきなのではないか、と言いたくもなるけれど、そういう愛情表現を貫いてきて、ブレなかったからこそ、「作家・西原理恵子」は売れっ子であり続けたのです。

 僕は西原さんと高須克弥さんの関係って、西原さんが高須さんのお金とか権力に依存しているというより、人生の後半、あるいは終盤に差し掛かった高須さんが、西原理恵子という「自分をネタとして面白く描いてくれる人」にようやく出会って、喜んでいるように見えるのです。
 高須さんは、なんでも持っているすごい人だったけれど、だからこそ、「敬して遠ざけられてきた」のではなかろうか。
 西原さんにとっても高須院長は、「ネタにしても折れないでくれる人」だったのです。

 
 「共依存」なんていう便利な言葉もありますが、便利すぎて僕は嫌いなので、「われなべにとじぶた」という表現にしておきます。
 西原さんも高須さんも、本来は、他人に「依存」するタイプではありませんし。


 「子どもや家族、知り合いをブログやSNSのネタにすること」と「子どもを虐待すること」は、切り分けて考えた方が良いのではないか、と思うのです。


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 『積木くずし』のモデルになった女性はずっと「あの『積木くずし』の子」と周りに言われ続け、椎名誠さんの『岳物語』のモデルになった息子さんが「おとう、もう俺のことを書くのはやめてくれ」と懇願していたのです。
 
 ひどい話ですよね、本当に。

 でも「自分の子どもが嫌がることをするべきではない」というのが最優先になるのであれば、悪役を演じる俳優とか、トイレの汲み取り業という仕事なども「子どものためにやめるべき」なのか?

 出典は忘れてしまったのですが、西原さんが作中で、子どもたちに「お母さんはお前たちのことを描くのが仕事で、その仕事のおかげでみんなご飯を食べられている。だから、描かれるのは仕方がないと思いなさい」と語りかけていた記憶があります。

 そんなのは、親の身勝手、だと思う。
 その一方で、親(とくに母親)は子供のために全てを犠牲にしなければならない、という社会規範が少しずつ柔軟に、そんなに力まず、手を抜くところは抜いてもいいんだよ、となっていったのには、西原さんの功績がかなりあると思います。

 プライベートではロクでもない偉大な思想家なんて、たくさんいますしね。
 『社会契約論』で有名なルソーは、『エミール』という教育論でも知られているのですが、ルソーは自分の5人の子どもを孤児院に入れています。 「父親としてやっていく自信がない」という理由で。
 インターネット時代ならSNSで大炎上、もしくは「文春砲」の餌食になっていたことでしょう。
 
 正直、品行方正で言行一致、という聖人君子しか、意見を言えない時代は、けっこうきついですよね。それが厳格に運用されれば、Twitterのタイムラインは閑散とするはずです。

 そもそも、僕は「育児論」とか「教育論」というのは大の苦手というか、自分が正しいことをやってきたとは全く思えないので、「立派な子育てをしている人の話」は読むのが辛くてスルーしてしまうのです。
 それぞれの子どもに適したやり方というのはあるのだろうし、誰が見てもおかしい虐待があるのは間違いないのですが。

「子どもは中学受験をさせて、学びやすい環境に置くべき」というのと「小学生から勉強漬けなんておかしい。勉強よりも子供として過ごすべき時間や遊びを重視すべき」という選択に「一般的な正解」なんてあるのだろうか?

 ただ、個々の「育児論」は胡散臭いものでも、今の時代のように、多様な家族が可視化されていることは、全体的には「多くの人が、さまざまな状況で生きやすくなってきた」とも思うのです。


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 そもそも、西原さんって、今の炎上系YouTuberの先駆者みたいなものじゃないですか。「身内のことを描いたら、誰も読まない」くらい読者のリテラシーが高ければよかったのかもしれませんが(ちなみに、僕も下世話なネタは好きです。自分でもイヤになるほど)。

 アントニオ猪木を蝶野正洋が「あの人は太陽だ。遠くから眺めていると暖かくて輝いているが、近くにいると焼け死ぬ」と評したのを思い出します。

 西原さんほど売れて、世の中から賞賛されていれば、自らの幼少期からの「澱み」が浄化されていてもおかしくないと思うのに、自分の「家族」の中では、客観的にみればやってはいけないこと、をやらずにはいられないというのは、なんだかとてつもない「呪い」的なものを感じてしまうのです。
 
 子どもの頃に自分がされてイヤだったことを、いつの間にか自分の子どもにしてしまっている、あるいは、してしまいそうになって、ハッと我に返って背筋が凍る。
 そんなこと、ないですか?
 僕はこれまで何度もありました。

 自分のこれまでの人生を考えると、他者に対して、上手に「愛情表現をすること」は、本当に難しいものだと思います。
 人が、いろんなものを「断ち切る」ことも。


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